寿安堂

佐伯理一郎の系譜

はじめに

今より遡ること25年前の1993年頃、私の父が今はなき京都産院で古ぼけた一つの箱を見つけたことからこの物語は始まる。

 

京都産院とは、明治時代の海軍医・産科医であった佐伯理一郎(さいき りいちろう)が設立した病院で、佐伯理一郎とは私の曾祖父にあたる。そしてその箱の中身とは、理一郎が生前に蒐集した佐伯家の系譜にまつわる資料であった。これらの資料は理一郎の手記、理一郎以前の先祖が残した手記、古書、手紙など約50点から構成され、現在その全てが私の手元に存在する。

この箱が私の生家に存在することは以前より父から聞き及んでいたが、長らくその箱は忘れられ、私の父もこれらの資料を真剣に解読しようとはしなかった。しかし、数年ほど前から、理由はよく分からないが私がその箱に惹かれはじめ、理一郎が書き記した物語を紐解くようになる。

 

子供の頃より父から聞かされていた佐伯家の系譜に纏わる物語。

 

曰く、理一郎の生家は阿蘇にあり、代々阿蘇神社に仕えた宮侍である

曰く、佐伯家は熊本藩細川家の家臣であった

曰く、細川家に縁を感じた理一郎は京都大徳寺細川ガラシャの隣に墓を建てた

曰く、元をたどれば佐伯家は豊後大友の家臣であり、島津に敗れて阿蘇に落去した

曰く、当家の男子には代々、惟の字を冠した諱がつけられており、お前にも諱がある

 

本当だろうか?

宮侍とは一体どんな仕事なのだろう?警護?それとも神職だったのだろうか?理一郎は熊本バンドに入り西洋にかぶれ、キリスト教に改宗した上に海外留学までしている。神社に仕える家からそのような者が出て問題にならなかったのだろうか?諱?忌み名?これはいったい何なのか?なぜ私にも諱が付けられているのだろうか?

 

手始めに私はこれらの資料を全てスキャンし、電子データ化を完了した。

すでにいくつかの郷土史研究会や資料館などにも研究目的でデータを寄贈している。

 

 

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佐伯家系図 略

直祖豊後守佐伯惟基より出つ

惟基は豊後国佐伯に生し五十一才の時豊後の守護に任せられ元永元年戊辰十一日没す

年九十三才、姓は大神(オオミワ)と称す

其後子孫代々と殖へ、源平時代に至り兄弟三人あり長を佐伯太郎、次を臼杵次郎、三を緒方三郎と唱う

三郎最も秀で、源義経の**竹田城を築き且つ軍艘として各百艘***参百艘を壇ノ浦に**供す

之からこそ源氏は大勝して**平家を亡し得たりと言伝う

天正十三年三月豊臣秀吉備中国冠山の城を**に当たり佐伯惟宣(太郎と称す)先陣*功あり依って感状を与えられる(其の感状今も家蔵す)

其後、大友宗麟の客分となり島津との戦に尽力せしも、大友家亡ふるに*****肥後の阿蘇に**阿蘇宮司の客分となり明治維新に逢し遂に京都に移住す(明治三十四年)

 

(*は解読不能字)

※ここで言う竹田城とは雲海で有名な兵庫の竹田城ではなく、大分県竹田市にあった岡城のこと

 

上記は理一郎が私の父に宛てた手簡である。何故理一郎が数多い子孫の中から私の父を選んでこのような手記を残したのかは不明ではあるが、理一郎は豊後佐伯氏の始祖、大神惟基に自身のルーツを見出していたようだ。但し、上記手記には多分に誤謬が含まれている。緒方三郎の部分まではおおまかに史実と整合しているが、豊臣秀吉の九州平定で先陣を切ったのは佐伯惟宣(惟教)ではなく惟定である。また、家蔵すると書かれている秀吉からの感状は原本ではなくただの写しにすぎない。更に、我が一族は大友宗麟の客分になり島津との戦に敗れて阿蘇に落去したのではない。私が考えるに、阿蘇の佐伯氏はおそらく南北朝時代から戦国初期にかけて徐々に阿蘇に移住している。決定的であったのは10代惟治の時代に大友より謀反の嫌疑をかけられ、家を滅ぼされそうになった事であろう。その後阿蘇に落ちた佐伯氏は当時はまだ武家大名であった阿蘇家に庇護を求め、代々阿蘇家に仕えるようになる。であるから、秀吉の九州平定の時代には我が一族はとっくの昔に阿蘇にいたはずで、それどころか阿蘇の佐伯氏はそれ以前の阿蘇合戦において阿蘇家とともに島津に滅ぼされているのだ。このような島津の台頭を恐れて大友宗麟が秀吉に助けを求め、秀吉が九州侵攻を開始するのはその後である。尚、当家が直接細川家に仕えた記録はない。

理一郎が大神惟基の子孫であるということはほぼ間違いないと思う。但し、阿蘇の佐伯氏がいつごろ豊後を立ち、阿蘇に移住したのかは分からず、理一郎の系譜を辿る上で最大の謎である。

 

また、寿安堂という名前にも少し触れておく。理一郎は京都の自宅に茶室を作り、寿安堂と名付け、自らを寿安の主人と号していたようである。「寿安」の印も作っていたようで、阿蘇神社に所蔵される巻物にも寿安の印が残っているものがあると聞く。

寿安の名の由来について、千利休がつくった茶室、待庵をもじったとも、細川ガラシャの次男、細川興秋の洗礼名ジョアンにあやかったとも言われているようだが、真相は分からない。

 

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私はこのブログを寿安堂と号し、理一郎の遺志を胤ぎ、胤斉を名乗る。

更新はひどく不定期になると思うし、理一郎の系譜を大神惟基まで辿るには私の一生だけでは足りないかもしれない。ただ、あの箱が、理一郎の遺志が、謎を解き明かせと私に語りかけるのだ。

 

私は父に言った事がある。「よくもあんな古ぼけた箱を取り壊し寸前の廃院から見つけたな」と。

父は真顔で、「そうじゃない、俺があの箱に呼ばれたんだよ」と答えた。

 

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