寿安堂

佐伯理一郎の系譜

佐伯家系図写(理一郎著)その壱

以下は理一郎の残した家系図資料の中で最もよくまとまっていると思うものである。

 

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ここで「系図写」とはじまるまでの前段は、字が汚すぎて真面目に読んでいない。(というか読めない)

「佐伯家祖先の故跡」と読める部分は大神惟基の大蛇伝説、緒環(おだまき)記*1であろうと思う。

 

さて、ここからが本題で、佐伯次郎惟廣(これひろ)がいかなる人物であったのか。

阿蘇の佐伯氏に広く伝わる家系図のほぼ全てが、この佐伯惟廣なる人物に阿蘇の佐伯氏の系譜を帰結させている。

 

佐伯次郎惟廣

豊後国祖母嶽守護繯巻の*系姓大神兄弟三人あり、別府太郎、緒方三郎、佐伯次郎是也(豊後誌武家評林に概略を載す)時代*ならずと**戦国足利時代と。

佐伯伊三郎曰く、太祖は大神惟基公にして明治三十四年を*るは八百七十五年なりと。

要は、緒方三郎の兄だったとする説である。

 

余談であるが、佐伯伊三郎とは理一郎と同じ時代を生きた阿蘇の佐伯氏の一人で、文武両道で名が知れた名士だったようである。*2 理一郎と伊三郎の往復書簡は数多く残っており、伊三郎は理一郎が阿蘇の佐伯家系譜を調べるにあたり主な情報提供者であったようだ。

 

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惟輝 

因幡守と称す。惟廣五世の孫、父祖の業を継ぎ豊後国佐伯栂牟礼城主たり大友と戦を交え一敗、地を棄て肥後国に去り阿蘇宮司に依り家臣となる。(以下略)

 先に紹介した「家系図 略」では大友のもとで島津との戦いに敗れ、阿蘇に落ちたと書いてあるのにこちらでは大友と戦を交えたことになっている。(理一郎はおおざっぱな性格だったようだ。)また、惟輝は大永7年(1527年)12月12日に卒す、とある。

本家、豊後佐伯氏で1527年というと、佐伯惟治が大友に敗れて尾高智山で自害したと伝えられる年でる。であるから、当然その時の栂牟礼城城主は惟治である。大友と一戦を交えたという時代は符号するが、城主の名前が一致しない。

阿蘇佐伯氏に伝わる多くの家系図や、「阿蘇魂」でも阿蘇佐伯氏の初代は惟輝であると定めている。但し、本家の豊後佐伯氏の家系図には栂牟礼城主惟輝なる人物は登場せず、まさしくこの惟輝こそが阿蘇佐伯氏と豊後佐伯氏をつなぐミッシングリンクと言える。

 

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惟光の子、惟治。(惟輝から数えて3代目)

上述した本家佐伯氏の10代当主、佐伯惟治とは別人である。

島津が阿蘇に攻めて来た際に武功を立てた、とある。この武功により阿蘇宮司家より褒美として阿蘇郡波野郷一帯の土地を与えられ、楢木野の姓と槍一振りを与えられたようである。

ここで分かることは阿蘇の佐伯氏というのはほぼ全ての氏族が一度は楢木野姓になっているということ。当家も後に佐伯姓に復姓するまでは楢木野という苗字だったのだ。

惟治を阿蘇佐伯氏の初代と定める家系図が多い。

 

さて、しばらく読み飛ばしていこう。

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惟知

称す、右京*剃髪号を遊間、年九十三 天正中、阿蘇落去の際、浪人となる。

いきなり入道し、阿蘇を去り、浪人になっている。時は秀吉の九州平定の直前、島津の侵攻に対し阿蘇家は絶滅寸前の様相であり、惟知は奉仕するところを失い、その子孫はその後庄屋になったとある。*3

 

 

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楢木野孫兵衛大神惟秀

源内左衛門の子、始めて宮地に移る。

先祖の訳を以て阿蘇宮司家臣となる

寛延二年(1749年)巳己九月六日没す。 

ここで初めて宮地の地名が出てきた。

楢木野を宗家とする阿蘇佐伯氏は、その後阿蘇に散らばり、以下の分家となる。

  • 楢木野(宗家)
  • 滝水(佐伯伊三郎の系統)
  • 産由
  • 上ノ原
  • 中江
  • 宮地
  • 色見

佐伯理一郎は宮地の佐伯家で、生家は阿蘇神社の裏手にあった。

現在その場所には山部商店という名前の小さな商店があり、店の前には小さな石碑が立っている。

 

阿蘇佐伯氏の初代、惟治から孫兵衛まで11代。

孫兵衛を宮地の初代と数えると理一郎は8代目である。

 

さて、その次である。

佐伯進士兵衛大神惟頼

惟秀の二子、寛保二年*月(1742年)佐伯の旧姓に復す。

*三宅平太郎の配下より再び阿蘇家に*りたるの時なり。

 この進士兵衛の代で再び阿蘇家に召し抱えられ、そのタイミングで姓を佐伯に戻したようだ。身分は百姓(庄屋)から武士に戻ったはずである。

また、進士兵衛を召し抱えることにした阿蘇家にも記録(阿蘇家文書)が残っており、初めて確証を以て実在が確認できる人物と言える。阿蘇家文書にはその祖父楢木野源内の名前まで記されており、少なくとも楢木野源内から理一郎までの系譜は正しいと私は考えている。 

 

以下は、阿蘇神社権禰宜 池浦秀隆氏から提供を受けた阿蘇文書の該当部分写しである。

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可能な限り書き起こしてみる。

** 迫助五郎

宮地町 佐伯新次兵衛 

 

右の者、先祖は大友家の侍にて有の候処、佐伯因幡守と申す者の代属当家数十代楢木野へ治領す知居候処、当家落去以後浪人にて罷り在り。

其の後、郡方役入杯に相成り居候処、右新次兵衛祖父楢木野源内と申す者三宅藤兵衛家来罷り成り申し候。

右の通り譜代相い伝えの者に付き、先大宮司代寛保二年三宅平太郎へ及び取り遣い、右源内孫此の方家来召し抱え、先祖の名字に相改め申し候。

 

同 市原五郎**

右の者、先祖は当家譜代家来坂梨之

当家に伝わる家系図では進士兵衛とあるが、阿蘇家文書には新次兵衛とされている。正直言ってこの時代にはよくある間違いで、取るに足らないことであろう。

 

さて、続き。

 

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 この記録はここで一旦区切りとなっており、次からは孫兵衛を宮地佐伯家の初代として再度家系図が続く。

恐らくここまでが”写し”、この先は理一郎本人の自著であろうと思う。

 

すごくどうでも良いことだが、これまで源内左衛門とか進士兵衛といったTHE江戸な名前からいきなり操とか唱といったちょっとジェンダーレスっぽい名前になったことに凄く興味を惹かれる。1740~1750年頃というと時はあの暴れん坊将軍徳川吉宗の時代である。その時代に何か文化風習が大きく変わる出来事があったのだろうか。。。

 

 

*1:繯巻とも、平家物語第八巻

*2:山本十郎『阿蘇魂』阿蘇魂刊行会、1969

*3:山本十郎『阿蘇魂』阿蘇魂刊行会、1969