寿安堂

佐伯理一郎の系譜

佐伯家系図写(理一郎著)その弐

さて、佐伯家家系図写はまだ続く。

ただし、ここからは宮地佐伯家初代を楢木野孫兵衛惟秀と定め、新しい体裁で記録が続く。

家督を継いだ長子だけではなく、妻や兄弟の名前が登場するようになり、情報量が格段に増える。おそらく理一郎本人の記録や、阿蘇に残る佐伯諸族から直接聴取した内容が織り込まれていると考えられる。

 

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操、唱と続いていたジェンダーレス男子が突然衛門太によって現実に引き戻される。

但し、衛門太に記される注記は当時の時代背景を理解するのに非常に役立つ。

 

衛門太

諱惟寛、市原盛快三男。初め、内牧寺西新助養子となり一女を奉て後、離縁し佐伯家の養子となる(文政九年十一月十七日)嘉永元年二月**変死、*五十才

 

衛門太は阿蘇家の筆頭家臣である坂梨市原家の出身である。それが三男というだけでより下位(と思われる)内牧の寺西家の養子となり、女子しか産まれなかったために離縁されている。その後、佐伯家に再度養子に出されるわけだが、当時の佐伯家は阿蘇家の家臣団では8番目くらいの順位であり、筆頭家臣であった市原家と比較すると家の格は相当に低かったと考えらえる。いかに長子以外の男子及び女子の扱いが悪かったかを如実に語るエピソードである。

さらに衛門太は「変死」とあるが、狩猟中の事故で亡くなったと聞く。

 

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さて、ここでようやく理一郎の名前が登場した。

 

清次郎が残した手記もいくつか理一郎の箱の中に保管されており、阿蘇家当主が熊本藩へ登庁(?)した際の道中記なども存在する。あまりにもアヴァンギャルドなくずし字で記されているために解読は容易ではないが、熊本へ出る際にどこの飯屋に寄っていくら払ったとか何時から何処どこで芝居を見学するとか書いてあるようである。まるで本社から役員が来た時の営業担当サラリーマンのような仕事である。家督制度や婚姻の風習が思い起こさせる前時代感と、清次郎のサラリーマン然とした勤務実態のギャップが私の興味を惹く。

 

話がそれるが、理一郎は坂梨家の家系も調べており、誰かが簡単に記した家系図が残っているのでいずれそちらの話もしたい。(但し、字が汚すぎて読めない。)

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〇印がついているところが衛門太。辛うじて寺西新助の字が判別できる。

 

実はこの次に理一郎が自分の子や孫の名前まで記し、自ら諱を付けているページがあるのだが、ここまで来ると現在も存命の方の名前が登場する。私の父も好き勝手に自分の家族を書き加えているので、私の名前、諱すらも登場する。色々と差支えがあるので全体公開するのはここまでとさせて頂く。

 

理一郎の子孫に関しては、閨閥学というホームページが詳しい。完全ではないが、大体合っている。そして、多少間違いがあった方が当家のプライバシーを守るに都合が良いのでそのままにしておく。

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