寿安堂

佐伯理一郎の系譜

2018年2月17日議事録:阿蘇神社権禰宜 池浦秀隆氏

2018年2月17日に阿蘇神社を訪問し、権禰宜であり、同社の学芸員でもおられる池浦秀隆氏と面談をさせて頂く機会を得た。

 

以下、議事録。

 

----------------------------

 

20180217 阿蘇神社 権禰宜 池浦秀隆氏

(冒頭に阿蘇神社宮司阿蘇治隆氏が挨拶に見えて、名刺交換をさせて頂いた。)

江戸時代の阿蘇家に伝わる古文書(阿蘇家文書)を全て熊本大学に預けており、初めて目録を作る作業をしているところ。その中に、熊本藩に家臣の雇用(主従関係の締結)を報告する文書もあり、宝暦3年(1753)年に佐伯新次兵衛*1阿蘇家家臣として取り立てると申告している。その文書にも、佐伯新次兵衛は豊後大神氏の出自で、大友に追われ楢木野に居住していた一族であるとある。主従関係を結んだタイミングで楢木野から佐伯に復姓している。

この阿蘇家文書を辿ると、佐伯家に関する情報がまだ出てくるはず。少なくとも家臣の代替わりは全て記録されているはずである。ただし、鎌倉時代の記録はほとんど現存しない。一般公開されていないので、熊本大学に開示請求をかける必要あり。

江戸時代の阿蘇宮司家は大まかに家事組織と神社組織に分かれており、それぞれ"お屋敷"、"お宮"と呼称している。またその他にも阿蘇宮司家が所有する仏教組織もあり、いずれも阿蘇山の火口が御神体神道か、仏道かというのはあくまでツールの違いとして捉えており、大切なのは地域の信仰を支えること。

宮地の佐伯家(理一郎家)が代々職務についていた大宮司近習というのはお屋敷の仕事であるので、神職ではない。神社ではなく、文字通り屋敷で勤務していたと思われる。家臣にもランクがあり、佐伯家は上から2番目の小姓頭格*2という中間管理職的なポジション。坂梨は1番目の触頭。家臣と言っても、身分が低ければ名目だけの武士で、普段は百姓をやっていたと考えられるが、小姓頭格であればやっていないであろう。具体的な職務内容は徴税、会計、記録、文書作成、阿蘇家当主の公務補佐などではないか。阿蘇家当主は熊本藩に赴く用事も多く、同行していたと考えられる。理一郎所有の〇〇道中記の中にも熊本藩への道中記がある。清次郎が記したもの。

現在でも元阿蘇家家臣の末裔で作る、旧臣会という集まりがある。ここ20年くらいは目立った活動をしていないが、、、 

理一郎氏は寿安という号を名乗っていたが、寿安の印が押された資料が一部阿蘇神社に残っている。祭りの行列を描いた絵巻物。元々は神社のものであると考えられるが、一時期理一郎氏が保有し、その後返却されたのではないか。

佐伯家に代々ついている惟の字がつく諱は、いわゆる(呪いなどに使われる)忌み名ではなく、正式な名前。清次郎とか衛門太というのは日常に使う俗称。阿蘇家も当主は惟の字がつく。佐伯氏と阿蘇氏のどちらにあやかって惟の字を付けていたのだろうか。

 

----

神社裏手にある、理一郎生誕碑に歩いて案内してもらった。現在は山部商店というお店の一角にあり、この山部商店は昔の信用金庫の建物を居抜きで使っているために奥に金庫が見える。ここのオーナー家族が碑の手入れをしてくれている。碑の裏には義男の名前があり、理一郎の長男である佐伯義男が碑を建てたということであろう。

----

阿蘇宮司家の墓がある墓地を教えてもらい、1人で行ってみた。有力家臣の墓もあると聞いたが、墓地が広すぎて理一郎家に関係しそうなものは見つけられず。佐伯家の墓、と書かれた墓石がひとつあったが、ぱっと見で昭和に入ってからと思われるデザイン。坂梨家の墓多し。場所は阿蘇神社の前の道を南下し、豊肥本線の踏切を渡ってすぐ左手(東側)グーグルマップにはただ古神社と記載ある。(2019/8/25追記:Googleがゼンリンと破局した影響で現在は”古神社”との記載は見られなくなっている。)

 

 

----------------------------

 

 

 

*1:阿蘇家の記録では進士兵衛ではなく新次兵衛

*2:池浦氏にもらった資料には佐伯新次兵衛は上から三番目の”知行取格”と記載あり、詳細不明。