寿安堂

佐伯理一郎の系譜

2018年2月18日議事録: 佐伯史談会 佐藤巧会長

2018年2月18日に大分県佐伯市を訪問し、大分の郷土史研究会である佐伯史談会、佐藤巧会長と面談をさせて頂く機会を得た。

 

以下、議事録。

----------------------------

 

20180218 佐伯史談会 会長 佐藤巧氏

豊後佐伯氏の菩提寺が長らく不明であったが、佐伯史談会が番匠川の向かいの集落(上岡)にそれらしい寺と墓を見つけた。番匠川を三途の川に見立てたのでは。名を永福山慈済院という。墓も近くにある。鎌倉時代の五輪の塔様式のもの。銘が刻まれていないため、推測であるが、その大きさから有力者の墓と思われる。

永福山慈済院

豊後佐伯氏 墓地と思われる場所

延岡に佐伯惟治の霊を呼ぶ巫女がいる。80過ぎの老婆。郷土史の市民講座などをやると、その巫女はこう言ってたから、ここを調べてみろなどという話を始める輩がおり、話も長くて対応に困る。ただ、その巫女はかなり勉強しており、史談会が聞いてももっともらしく聞こえる事を言う。そもそも佐伯惟治の怨霊を祀る神社がこの地域に数多くあり、いまだに夜刀神の祟りは地域に広く信じられている。

豊後佐伯氏の経済基盤は鉱山事業が担っていたのではないか、と考えている。このあたりの山はスズや銅が取れる。色んな山に穴があいている。蛇神伝説もこの穴が遠因ではないか。また、佐伯惟治が妖術に傾倒していたという伝説も、製鉄技術を国家機密として秘匿したのが妖術として語り継がれたのではないか。また、犬神憑きの言い伝えも鉱山開発からの水質汚染が関係しているのかもしれない。

阿蘇の佐伯氏がいつ頃阿蘇に落ちたのかは定かではないが、7代惟仲が阿蘇宮司家の代理で南朝側で戦ったとする家系図もあり、南北朝時代から阿蘇との関係はあった模様。その頃から阿蘇、坂梨市原家との婚姻関係あり。佐伯市にも市原という苗字がいるが、本来豊後土着の名前ではなく、阿蘇から来たものと思われる。

佐伯史談会がこれまでにもっとも確からしいと考える家系図を四国で発見している。惟教の時代に伊予に落ちた一族の口伝と思われる。家系図自体は明治初期に作られたと考えられるもので、字体も読みやすく紙の保存状態も良い。
この家系図は神代(大国主命など)から書かれており、大和後期から大神惟基の間の系譜も記されている。この部分を記した資料は他に発見されておらず、貴重。惟基の蛇神伝説はこの空白を埋めるために後世が考えたものであろう。また、その他にも佐伯院が佐伯庄(=皇室領)になったタイミングなども記載がある。一部、鎌倉時代の裁判記録と整合が取れている内容もあり、かなり信憑性が高いと考えている。
作者は不明であるが、明治初期に政府主導の日本史編纂プロジェクトがあり、その招集を断り郷土史家として活躍を続けた西園寺源透という人物がおり、著者の可能性があると見る。

大神を”おおみわ”というのは大和の国。何故か豊後では”おおが”、と読む。前述の通り、大神惟基も大和の出自であろう。

 ----------------------------

 

 

参考:

ja.wikipedia.org