寿安堂

佐伯理一郎の系譜

佐伯氏と怪異伝説

 

佐伯に纏わる伝説は、豊後大神氏の祖、大神惟基が蛇神の子という言い伝えから始まり、そのほかにも様々な怪異が幾たびも佐伯の歴史に登場する。

以下は平家物語、繯巻記より。(”おだまき”記、「緒環」とも)

 抑(そもそも)緒方三郎惟栄と云うは大蛇の末なり。その由来を尋るに昔豊後国宇田という所に大太夫という徳人ありたるが、花ノ本という姫あり。容顔美目尋常ならず。国中に聟(むこ)になりたい者多かれども徳微(わずか)にて用ひず園に家を造りこの姫を住まわせたり。あるとき、立烏帽子(たちえぼし)に水色の狩衣を着たる男の、年は二十四~五ならんと思う人が、彼の花ノ本が側に差し寄りて、様々と物語して慰めども靡(なび)くことなし。夜な夜な通ふて細々に恨(うらみ)くどきたれば、花ノ本 は遉(さす)がの人にて岩木ならねば終に靡(なび)きたり。その後は夜な夜な通ひたり。父母に深く隠したけれども、後に知りて姫を呼び委(くわ)しく問はれども、恥かしき道なれば顔を打ち赤めて兎角を紛らわしたる。母は様々にさとしはなして問いたれば、親の命も背き難くして、ありのままにぞ語りたる。母をこのことを聞く。「水色の狩衣に立烏帽子の者、田舎人とも覚えず。定めて只人にてはあらじ、今は聟(むこ)に用うべし。如何に彼人(かのひと)の行末を知るべし…。」

 様々計らひけるに母は云いたり、「曙(あけぼの)帰る中に印をなして、その行末を尋ねるべし。」と、繯巻(おだまき)に針を与へて念頃(ねんごろ)に姫に教へて、その園の家に帰す。その末、彼の男きたり曙方(あけがた)帰りけるに教(おしえ)のごとく姫は繯巻(おだまき)に針を貫きて男の狩衣の首かみに刺したり。

 夜明る程に斯(か)くと告げたれば、親の大太夫・子供・下人四~五十人引具して糸の印を尋ね行き、誠に実る苧(からむし)百色千邑(せんゆう)に引はへ、尾を越え谷を越え行くほどに、日向と豊後と境なる祖母嶽と云ふに大きなる穴の内にぞ引き入れたり。

 彼の穴の口にて立てるをば、大きに病(やまい)吟ずる声あり。これを聞く人身の毛も余立つ恐ろしさ、父の教(おしえ)に任せて姫は穴の口にて糸を引き、「抑(そもそも)この穴の内には如何なる者の存すぞ。また何事にて病(やまい)て吟ずぞ…。」と問へば、穴の内に答へたるは「我は汝花ノ本に夜な夜な通ひたる者なり。縁も契(ちぎり)も尽き、曙に頤(あご)の下に立てられたれば、大事の疸(きず)にて病(やまい)吟ず。我が本身は大蛇なり。有りし形なれば出て見(みまえ)もしけれども、日頃の情(なさけ)既に尽き本(もと)の形は恐れたまふべしなれば、這い出ては人怖じ、世に名残も惜しく恋しくも思ふゆれ、これまで尋ね来たりたまへること忘れ難し…」と云ひたれば、女の曰く「たとひ如何なる形にてまじくとも、日頃の情け如何でか忘るべきなれば唯出たまへ。最後の有様をも見奉り、露怖(つゆこわ)しと思わず。」と云ひたれば、

 大蛇穴の内より這出たれば、長さは知らず臥丈(ふしだけ)は五尺ばかりあり。眼は銅の錫(すず)を張るがごとく、口は紅を含めるに似たり。頭に角を頂き頭髪を生すなどして獅子頭に異ならず。去れども形に似ず、ががとして泪(なみだ)を浮かべ頭ばかりを差し出したりが、着たる衣を大蛇の頭に内掛け、頭の下の針を抜く。

 大蛇は大喜悦にて申したるは、「汝が腹の内に一人の男子やどれり、すでに五つ月になり。又八か月にして顕(あらわ)れたらば日本国の大名ともなるべし。五つ月にして顕(あらわ)れなば九州には勝者あるまじく、弓矢を取って人に勝れ、計(はかる)の事賢くして心剛なるべし。先非(さきあらざ)る恐ろしき胤(たね)ならば、迚(とて)も穴かしこ捨て玉ふな、我子孫の必ず繁昌すべし。」これを最後の言葉にて大蛇は穴の内に引き入りて死にたり。彼の大蛇と云うは則ち祖母嶽明神の水じゃく(垂迹)なり。

 大太夫の眷属立ち帰り日数積もりて月満ち、また花ノ本産して成長盛なるに随(したが)って容顔もゆゆしく心根も猛かりたり。母方の祖父の名を取って大太童子と呼べり。常に野山を走りたれば足にあかがり常に割れたれば、苗字あかがり太夫と云いたる。その子大弥太、その子大次、その子大六、その子大七、五代目の孫に佐伯次郎惟廣、緒方三郎惟義(惟栄)は竹田岡城主なり。

出典:平家物語「繯巻記」

 

 もちろんこの伝説は後の子孫が出自を誇張したものであると考えられる。

しかも大蛇と云いつつ5尺(1.5m)って。。。ちょっと短かくないでしょうか。

現代の常識から考えるとあかがり(あかぎれ)大太って、アトピーだっただけじゃないの?という気もする。(もしくは魚鱗癬?)

 

それはともかく、この大蛇が住んでいた穴というのは現存(?)しており、普通に観光で訪れることができる。

 

おそらく子孫代々この伝説を有効利用(?)したと考えられ、豊後佐伯氏の家紋は「三つ鱗」、代々当主には体に鱗が現れるとの伝説まである。

 

祖母岳大神宮の末の家は、代々鱗あり。前の佐伯惟定の嫡男惟重のとき、元和五年己未十一月二十日に脇の下より一つ出る。予(大友興廃記の著者杉谷宗重)年号日付し是を認む。前の惟定には三つ出たる由聞ゆ。

出典:大友興廃記「剣の巻」

 

他にも。。。

 

10代佐伯惟治:

大友に謀反の嫌疑をかけられ、臼杵長景に騙されて栂牟礼城から退去の道中待ち伏せされて自刃。その後各地で異変・怪異が相次ぎ、惟治の呪いとして恐れられた。臼杵長景も病死。惟治を祀る神社が20あまり建てられたとも。存命中からトビノオ様、 夜刀神として領民から恐れられていたそうな。栂牟礼記にも「妖術を用いて民を惑わす」とあり。

 

11代佐伯惟定:

秀吉の九州平定の際に先陣を切った猛者。その後大友改易とともに藤堂高虎の家臣となったが、その後津藩にも色々と言い伝えを残したようである。

 

 佐伯氏は九州に多い大神姓の国人ですが、この一族は皆その家に祖母嶽大明神(蛇神)の末裔という伝説を伝えており、佐伯権之助家も怪異の逸話が残る、藩内でも異色の家臣でした。

一例として「津市史」に以下のように書かれています。
「伊勢津の岩田字西裏に祖母嶽明神を祭った俗にいう佐伯の宮と称した神社があった。境内は八十六坪程で老樹が生い茂り、みだりに樹木を折り取ると神罰があると言い伝えられて恐れられた。佐伯権佐がここに来住して来た時に、豊後直入郡の祖母嶽大明神を移し祭ったので、佐伯の祖先は蛇であるという怪異を伝えた。
ある時藩主が丸ノ内の佐伯の宅に臨んで、祖先代々の秘箱を開こうとしたら、にわかに一天がかき曇り恐ろしい空模様となってきたので、さすがの藩主も驚いて中止したということである。佐伯家は桑名藩にもあるが、同じようにその祖神である姥嶽明神の神霊について、これと良く似た伝説がある。」

 また1941年発行の「安濃津郷土史会々誌」には
「毎年十一月二十四日が佐伯祖神の例祭日で、佐伯主人は其の前一週間厳重に齋戒して、穢れを除き、深夜丑時(午前二時)に寳庫を開いて尊拝し、それが終わると直ちに佐伯町なる御宮に参拝する。これには定まった式禮があって、形の如く執行せられ、それが済んで主人が帰館すると共に門を開くのが、定例となっていた。この七日の潔齋は餘程嚴に行うたもので、その間は御殿への出仕もせず、又、物頭の勤役も免除せられたと、洞津遺聞にも記してあるが、佐伯の神寳となると、それ程も藩の公認する神秘的な存在だったのである」

出典:藤堂高虎とその家臣

 惟定の刀と云えば巴作の太刀が有名であるが、他にも何本か「佐伯家の刀」というものがあるようだ。ネット情報でソースが確認できないので、ここでは紹介しない。とはいえ、その中の一振り、「神息の太刀」は同じ刀工の作が島原家に伝来したものが現存している。

www.city.shimabara.lg.jp

 

最後に断っておくが、私の体にはどこにも鱗は無いし、妖術も使えない。というか、阿蘇の佐伯氏にほとんど怪異伝説が残っていないので、妖力は本家に置いてきてしまったのであろう。。。

ただ、以前ニシキヘビ(ボールパイソン)を飼育していたことがあるので、不思議な縁を感じなくもない。