寿安堂

佐伯理一郎の系譜

惟廣と惟弘

 阿蘇の佐伯氏の初代と定められる佐伯惟輝、そしてその5代前の先祖とされる豊後佐伯氏の佐伯惟廣。この二人が佐伯本家の家系図に見当たらないことは前述のとおりである。

 

 佐伯家文書に曰く、

佐伯因幡守惟輝は、豊後国媼岳(祖母山)守護神之陰系大神姓佐伯二郎惟広五代之孫惟輝、大永之頃子細ありて居城豊後国佐伯荘栂牟礼城を落去りて肥後国阿蘇宮司を頼り来り、大宮司より客席として知行五百石を被宛行、其後東口請持砒を波野の内楢木野邑に構え於波野所領現地七十余町被宛行、楢木野苗字を賜り楢木野因幡守入道了法と号す、大永七年十月十二日逝去

と而(こう)して惟輝を阿蘇に於ける初代と定む。

出典: 阿蘇魂 (山本十郎)

 

 

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惟輝の没年大永7年といえば西暦1527年、奇しくも佐伯本家では佐伯惟治が臼杵長景の計略にかけられ尾高智山にて自刃したその年だ。

阿蘇佐伯氏初代を惟輝とすると、3代惟治が大永2年(1522年)に島津の侵入を防ぎ武功を挙げ、楢木野姓と槍一筋を大宮司から賜ったとあるから、少なくとも惟輝が阿蘇に移住したのは1522年以前のことと考えられる。惟治が大永年間に栂牟礼城を築いたとされているので、惟輝から5代先祖とされる惟廣が栂牟礼城主だったとは考えにくい。

 

さて、惟輝から5代前をさかのぼると、1世代25年~30年と考えて125年~150年前に生きていた人物と考えるのが自然。惟輝の没年1527年を起点とすると、1377年~1402年頃に亡くなった人物である可能性が高い。

 

この年代に近い佐伯本家の人物で言うと、7代佐伯惟仲(1373年没)とその弟佐伯惟弘(1367年戦死)がいる。

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上記資料は佐伯史談会から提供を受けた、伊予の佐伯氏に伝わる豊後佐伯氏家系図で、史談会が考える「もっとも正史に忠実な家系図」である。(下記記事参照)

 

佐伯史談会がこれまでにもっとも確からしいと考える家系図を四国で発見している。惟教の時代に伊予に落ちた一族の口伝と思われる。家系図自体は明治初期に作られたと考えられるもので、字体も読みやすく紙の保存状態も良い。
この家系図は神代(大国主命など)から書かれており、大和後期から大神惟基の間の系譜も記されている。この部分を記した資料は他に発見されておらず、貴重。惟基の蛇神伝説はこの空白を埋めるために後世が考えたものであろう。また、その他にも佐伯院が佐伯庄(=皇室領)になったタイミングなども記載がある。一部、鎌倉時代の裁判記録と整合が取れている内容もあり、かなり信憑性が高いと考えている。
作者は不明であるが、明治初期に政府主導の日本史編纂プロジェクトがあり、その招集を断り郷土史家として活躍を続けた西園寺源透という人物がおり、著者の可能性があると見る。

(佐伯史談会 佐藤巧会長聞き取り)

 

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2018年に佐藤会長にお会いしたときは資料としてまだまとまっていなかったようであるが、その後佐藤会長のご厚意により家系図の写しと、上記の通りデジタルファイルに書き起こした写しを提供頂いている。この場を借りて御礼を申し上げたい。

余談ではあるが、なんとこの家系図の最初に書かれている名前は素戔嗚尊スサノオノミコト)である。理一郎の家系図は神代まで続いていて、私の先祖はスサノオだったのか。。。!!(ほんまかいな)とはいえ豊後佐伯氏の祖である大神惟基の先祖、大神良臣や三輪子首らが大和大神(おおみわ)氏であり、奈良の大神神社が所蔵する「三輪高宮家系」という資料に名が残っていると聞く。(なので、あまり信じていないが、完全なデタラメでもないだろうと思う。)

 

話がそれたが、私が云いたいのは阿蘇佐伯氏に伝わる佐伯惟廣とは、本家佐伯氏家系図に名前が見える佐伯惟弘と同一人物としか考えられないという事である。佐伯惟弘の没年1367年(正平22年)はターゲットとする1377年~1402年から若干(1377年まであと10年)ズレてはいるものの、惟弘が戦死せずに寿命を全うしていれば十分に年代が合致していると考えることができる。

 

また、惟仲は南朝側に付いて阿蘇惟村に代わり功を挙げたとあるし、惟廣が討死したとされる益城郡矢部というのは当時武家大名として勢力を誇っていた阿蘇家の本拠地、浜の館が在していた場所だ。二人とも阿蘇家に縁があった人物であることは疑いない。

佐藤会長からも「阿蘇佐伯氏の祖、佐伯惟廣とは7代佐伯惟仲の弟、惟弘のことではないか?」と示唆を受けていたが、自分の頭で考えなおしてもそうとしか考えられない。寿安堂が考える阿蘇佐伯氏の祖もやはり、7代惟仲の弟惟弘である。

 

気になるのは、正平22年2月にあったとされる矢部の合戦である。そのような記録はどこを調べても見つけることができない。情報をお持ちの方がいれば何卒ご教示頂きたい。