寿安堂

佐伯理一郎の系譜

薩摩島津の異常性と佐伯惟定

理一郎の系譜、阿蘇の佐伯氏の歴史を大雑把に言うと、大友に豊後を追われ、肥後国阿蘇に落去し阿蘇宮司家に庇護を受け、阿蘇家と共に島津に滅ぼされた歴史である。時は天正年間、秀吉の九州平定直前である。

本家佐伯家でも耳川の戦いから豊薩合戦の間、幾たびも薩摩に滅ぼされかけているので、本家、分家を問わず佐伯にとって薩摩島津といえば不倶戴天の仇敵。。。。のはずである。

しかしながら、島津の歴史は調べれば調べるほどにその異常なまでの好戦的で凶暴な性質に驚かされ、その一方で「島津に暗君なし」と言われるほどの知性や教育レベルの高さに心底関心させられる。

 

捨て奸

本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である。

関ヶ原の戦いにおける捨て奸
関ヶ原の戦いの際の島津軍では、所属した西軍方が崩壊し周りが徳川方の敵だらけの中で陣を引くにあたり、300程に減っていた兵数で敢えて敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸戦法を用いて伊勢街道経由で戦場から撤退した。それは敵に視認しづらくするのと射撃時の命中率向上の為に、退路に点々と配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してから槍で敵軍に突撃するものであった。徳川方の松平忠吉井伊直政本多忠勝らは島津隊を執拗に追撃したが忠吉と直政が重傷を負い、忠勝が落馬、島津義弘は追っ手を振りきって落ちのびることに成功した。直政はこのとき受けた傷がもとで病死に至ったと言われる。 高い銃の装備率と射撃の腕、さらに勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的な運用が可能なこの戦法だったが、義弘の身代わりとなって甥の島津豊久、家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出し、生きて薩摩に戻ったのは義弘を始めとした80余名であった。

余談ではあるが、島津の退き口で行われた捨て奸は、義弘や家老達に指名された者より志願者の方が多かったという。

出典:Wikipedia

 

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 釣り野伏せ

野戦において全軍を三隊に分け、そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せさせておき、機を見て敵を三方から囲み包囲殲滅する戦法である。 まず中央の部隊のみが敵に正面から当たり、敗走を装いながら後退する。これが「釣り」であり、敵が追撃するために前進すると、左右両側から伏兵に襲わせる。これが「野伏せ」であり、このとき敗走を装っていた中央の部隊が反転し逆襲に転じることで三面包囲が完成する。

基本的に寡兵を以って兵数に勝る相手を殲滅する戦法であるため、中央の部隊は必然的に敵部隊とかなりの兵力差がある場合が多く、非常に難度の高い戦法である。

この戦法の要点は敵を誘引する中央の囮部隊にある。戦場での退却は容易に潰走へ陥りやすい上に、敵に警戒されないように自然な退却に見せかけなければならない。この最も困難な軍事行動である「統制のとれた撤退」を行うためには、高い練度・士気を持つ兵と、戦術能力に優れ冷静に状況分析ができ、かつ兵と高い信頼関係にある指揮官が不可欠となる。

また、実際には伏兵に適した地形で敵と交戦するとは限らず、任意の地点に敵を誘引できない状況が発生することも多かった。そのような場合は伏兵の代わりに側面部隊が敵前迂回行動をとり、敵部隊の側面を突いて包囲した。囮部隊ほどではないものの、参加する他の部隊にも非常に高い能力が要求されるといえる。

出典:Wikipedia

 

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 島津義弘

慶長の役では慶長2年(1597年)7月、藤堂高虎らの水軍と連携して朝鮮水軍を挟み撃ちにし、敵将・元均を討ち取った(漆川梁海戦)。8月には南原城の戦いに参加して諸将との全州会議に参加した後、忠清道の扶余まで一旦北上してから井邑経由で全羅道の海南まで南下した。その後、10月末より泗川の守備についた。

慶長3年(1598年)9月からの泗川の戦いでは、董一元率いる明・朝鮮の大軍(島津報告20万人、『宣祖実録』十月十二日条 中路明軍2万6,800人及び朝鮮軍2,215人の計2万9,015人)を7,000人の寡兵で打ち破り、島津家文書『征韓録』では敵兵3万8,717人を討ち取った記載がある。これは朝鮮側史料の参戦数と照らし合わせれば、夫役に動員された明・朝鮮側の非戦闘員を含めるとしても誇張・誤認の可能性はあるが、徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評した。島津側の数字を採用するなら、寡兵が大軍を破った例として類例のない勝利であり、この評判は義弘自身や島津家の軍事能力に伝説性を与え、関ヶ原の戦い、ひいては幕末にまで心理的影響を与えていくことにもなった。

朝鮮からの撤退が決定し、朝鮮の役における最後の海戦となった11月の露梁海戦では、立花宗茂らともに順天城に孤立した小西行長軍救出の為に出撃するが、明・朝鮮水軍の待ち伏せによって後退した。しかし明水軍の副将・鄧子龍や朝鮮水軍の主将・李舜臣を戦死させるなどの戦果を上げた。またこの海戦が生起したことで海上封鎖が解けたため、小西軍は退却に成功しており、日本側の作戦目的は達成されている。これら朝鮮での功により島津家は加増を受けた。

日本側の記録によれば、朝鮮の役で義弘は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」[注釈 3]と朝鮮・明軍から恐れられていたとされている[注釈 4]。

 

人物・逸話

  • 家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵とも互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と批判されている。
  • 敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。
  • 祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。
  • 許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。
  • 義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった[12]。
  • 義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した[12]。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている[14]。
  • 愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。

出典:Wikipedia

 

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李舜臣を島津軍が戦死させた、とあるが、2019年現在日韓関係が史上最悪と言われるなか、文在寅大統領をはじめとする韓国左派陣営がしきりに口にする国民的英雄かつ抗日の象徴、あの「李舜臣」である。

 

また、私がもっとも好きなのは生麦事件から薩英戦争の流れだ。一連の流れには島津の好戦的かつ凶暴な性質、加えて高い知性と交渉力がよく顕れていると思う。

偏った個人的な見解ではあるが、薩英戦争と下関戦争がなければ日本は英国の植民地になっていたであろうし、その後の大日本帝国海軍と英国海軍の関係、ひいては日英同盟にも繋がっていなかったのではないかと思う。

 

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さて、こんな島津を相手に死闘を繰り広げたのが本家佐伯氏14代当主惟定である。

(残念ながら私の直系の先祖ではないが。。。)

 

 天正6年(1578年)に父・惟真と祖父・惟教が耳川の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。天正14年(1586年)の豊薩合戦の際には、周辺の諸将が次々と島津方に降る中で、客将・山田匡徳を参謀に据えて徹底抗戦した。居城・栂牟礼城に攻め寄せた島津家久の軍を11月4日の堅田合戦で撃破した。12月4日には佐伯家臣・高畑新右衛門が星河城を攻め落とし、島津側に寝返っていた柴田紹安の妻子を捕らえた。このため、紹安は動揺して大友方に帰参しようとしたが、その動きを察知した島津軍に殺害された。さらに12月18日には戸高将監率いる島津軍の輜重隊を因尾谷で襲撃し全滅させている。翌天正15年(1587年)2月には土持親信が守る朝日嶽城を奪回した。大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉が九州平定戦を開始すると、3月17日に府内から撤退する島津義弘・家久兄弟の軍を日豊国境の梓峠で撃破した。日向路の大将・豊臣秀長が豊後に到着すると合流し、先導役を務めて日向に入り高城攻め等に参加した。九州平定後、秀吉は惟定の奮戦を激賞し感状を与えた。

出典:Wikipedia

 

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耳川の戦いで祖父・父が戦死し、惟定が家督を継いだのは若干9歳(1578年)。薩豊合戦の時ににようやく17歳(1586年)である。秀吉の九州平定で先陣を切ったのが、18歳(1587年)。此の戦ではあの鬼島津、義弘軍を撃破している。文禄の役参戦が24歳(1593年)、おそらく大友義統の失態を眼前にし、さぞ失望したことと思う。

 

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ちょっと話が逸れるが、大友義統はまさにダメな上司の見本。下記は義統の人物評であるが島津義弘と比較してしまうと、その余りの格の違いに涙が出そうになる。

(そもそも大友氏って有名な武家の割には全然名将が居ないような。。。)

  • 『九州諸家盛衰記』では「不明懦弱(ふめいだじゃく)」と書かれている。これは「識見状況判断に欠け弱々しく臆病」という意味である。
  • 天正遣欧少年使節が帰国した際、宣教師たちに棄教のことを謝罪したが、この中で「もとより自分は意志薄弱で優柔不断な性分なので」と言及している。(フロイス日本史)
  • 相当、酒癖の悪い人物であったらしく、多くの宣教師の資料に「過度の飲酒癖やそれによる乱行が多い」と記されている。自身も自覚していたのか前述の通り、子・義乗に残した家訓に「下戸である事」と戒めを記している。
  • 父・宗麟がキリスト教に傾倒し神社仏閣を破壊したという話が知られているが、大友氏の本拠である豊後国内や筑後国内での破壊は、当時次期当主であった義統が積極的に行っており、義統が主導した可能性もある。
  • 島津氏の一軍が豊後府内に侵攻してきたとき、義統は府内の大友館を捨てて逃亡している。さらにこのとき、寵愛する愛妾を置いていたことを思い出して、家臣の1人に救出を命じた。家臣の1人は命令に従って救出してきたが、それに対して義統が恩賞を与えようとすると、「私は女を1人助けたに過ぎません。このたびの戦いで多くの同朋が死んだにもかかわらず、それには報いず、私にだけ恩賞を与えるとは何事ですか。そのような性根を持つ主君は、我が主君にあらず」と述べて、逐電したという。この家臣の名は「臼杵刑部」といい、のちに毛利輝元に仕えたという。

ダメだ。。。 ダサい。。。あまりにもダサすぎる。。。

 

惟定に戻る。大友改易後、藤堂高虎配下で慶長の役に参戦したのが28歳(1597年)、かつての仇敵島津義弘が武功を挙げ、鬼島津と呼ばれるのをどんな気持ちで見ていたのか。。。

関ヶ原の戦い(1600年、31歳)は宇和島城留守役を勤め、出陣していない模様だが、その後の大坂冬の陣(1614年、45歳)、大阪夏の陣(1615年、46歳)にも寡兵を率いて出陣している。

享年50歳、戦に明け暮れた人生であったと思う。同じような人生を歩んだであろう島津義弘とは互いをどう感じていたのだろう。

 

歴史に”もしも”は無いとよく云うが、佐伯が大友ではなく島津に仕えていたらどうなっていただろうか。佐伯惟定の波乱に満ちた人生を辿るとそう思わずにはいられない。