寿安堂

佐伯理一郎の系譜

薩摩島津の異常性と佐伯惟定

理一郎の系譜、阿蘇の佐伯氏の歴史を大雑把に言うと、大友に豊後を追われ、肥後国阿蘇に落去し阿蘇宮司家に庇護を受け、阿蘇家と共に島津に滅ぼされた歴史である。時は天正年間、秀吉の九州平定直前である。

本家佐伯家でも耳川の戦いから豊薩合戦の間、幾たびも薩摩に滅ぼされかけているので、本家、分家を問わず佐伯にとって薩摩島津といえば不倶戴天の仇敵。。。。のはずである。

しかしながら、島津の歴史は調べれば調べるほどにその異常なまでの好戦的で凶暴な性質に驚かされ、その一方で「島津に暗君なし」と言われるほどの知性や教育レベルの高さに心底関心させられる。

 

捨て奸

本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である。

関ヶ原の戦いにおける捨て奸
関ヶ原の戦いの際の島津軍では、所属した西軍方が崩壊し周りが徳川方の敵だらけの中で陣を引くにあたり、300程に減っていた兵数で敢えて敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸戦法を用いて伊勢街道経由で戦場から撤退した。それは敵に視認しづらくするのと射撃時の命中率向上の為に、退路に点々と配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してから槍で敵軍に突撃するものであった。徳川方の松平忠吉井伊直政本多忠勝らは島津隊を執拗に追撃したが忠吉と直政が重傷を負い、忠勝が落馬、島津義弘は追っ手を振りきって落ちのびることに成功した。直政はこのとき受けた傷がもとで病死に至ったと言われる。 高い銃の装備率と射撃の腕、さらに勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的な運用が可能なこの戦法だったが、義弘の身代わりとなって甥の島津豊久、家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出し、生きて薩摩に戻ったのは義弘を始めとした80余名であった。

余談ではあるが、島津の退き口で行われた捨て奸は、義弘や家老達に指名された者より志願者の方が多かったという。

出典:Wikipedia

 

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 釣り野伏せ

野戦において全軍を三隊に分け、そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せさせておき、機を見て敵を三方から囲み包囲殲滅する戦法である。 まず中央の部隊のみが敵に正面から当たり、敗走を装いながら後退する。これが「釣り」であり、敵が追撃するために前進すると、左右両側から伏兵に襲わせる。これが「野伏せ」であり、このとき敗走を装っていた中央の部隊が反転し逆襲に転じることで三面包囲が完成する。

基本的に寡兵を以って兵数に勝る相手を殲滅する戦法であるため、中央の部隊は必然的に敵部隊とかなりの兵力差がある場合が多く、非常に難度の高い戦法である。

この戦法の要点は敵を誘引する中央の囮部隊にある。戦場での退却は容易に潰走へ陥りやすい上に、敵に警戒されないように自然な退却に見せかけなければならない。この最も困難な軍事行動である「統制のとれた撤退」を行うためには、高い練度・士気を持つ兵と、戦術能力に優れ冷静に状況分析ができ、かつ兵と高い信頼関係にある指揮官が不可欠となる。

また、実際には伏兵に適した地形で敵と交戦するとは限らず、任意の地点に敵を誘引できない状況が発生することも多かった。そのような場合は伏兵の代わりに側面部隊が敵前迂回行動をとり、敵部隊の側面を突いて包囲した。囮部隊ほどではないものの、参加する他の部隊にも非常に高い能力が要求されるといえる。

出典:Wikipedia

 

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 島津義弘

慶長の役では慶長2年(1597年)7月、藤堂高虎らの水軍と連携して朝鮮水軍を挟み撃ちにし、敵将・元均を討ち取った(漆川梁海戦)。8月には南原城の戦いに参加して諸将との全州会議に参加した後、忠清道の扶余まで一旦北上してから井邑経由で全羅道の海南まで南下した。その後、10月末より泗川の守備についた。

慶長3年(1598年)9月からの泗川の戦いでは、董一元率いる明・朝鮮の大軍(島津報告20万人、『宣祖実録』十月十二日条 中路明軍2万6,800人及び朝鮮軍2,215人の計2万9,015人)を7,000人の寡兵で打ち破り、島津家文書『征韓録』では敵兵3万8,717人を討ち取った記載がある。これは朝鮮側史料の参戦数と照らし合わせれば、夫役に動員された明・朝鮮側の非戦闘員を含めるとしても誇張・誤認の可能性はあるが、徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評した。島津側の数字を採用するなら、寡兵が大軍を破った例として類例のない勝利であり、この評判は義弘自身や島津家の軍事能力に伝説性を与え、関ヶ原の戦い、ひいては幕末にまで心理的影響を与えていくことにもなった。

朝鮮からの撤退が決定し、朝鮮の役における最後の海戦となった11月の露梁海戦では、立花宗茂らともに順天城に孤立した小西行長軍救出の為に出撃するが、明・朝鮮水軍の待ち伏せによって後退した。しかし明水軍の副将・鄧子龍や朝鮮水軍の主将・李舜臣を戦死させるなどの戦果を上げた。またこの海戦が生起したことで海上封鎖が解けたため、小西軍は退却に成功しており、日本側の作戦目的は達成されている。これら朝鮮での功により島津家は加増を受けた。

日本側の記録によれば、朝鮮の役で義弘は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」[注釈 3]と朝鮮・明軍から恐れられていたとされている[注釈 4]。

 

人物・逸話

  • 家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵とも互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と批判されている。
  • 敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。
  • 祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。
  • 許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。
  • 義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった[12]。
  • 義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した[12]。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている[14]。
  • 愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。

出典:Wikipedia

 

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李舜臣を島津軍が戦死させた、とあるが、2019年現在日韓関係が史上最悪と言われるなか、文在寅大統領をはじめとする韓国左派陣営がしきりに口にする国民的英雄かつ抗日の象徴、あの「李舜臣」である。

 

また、私がもっとも好きなのは生麦事件から薩英戦争の流れだ。一連の流れには島津の好戦的かつ凶暴な性質、加えて高い知性と交渉力がよく顕れていると思う。

偏った個人的な見解ではあるが、薩英戦争と下関戦争がなければ日本は英国の植民地になっていたであろうし、その後の大日本帝国海軍と英国海軍の関係、ひいては日英同盟にも繋がっていなかったのではないかと思う。

 

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さて、こんな島津を相手に死闘を繰り広げたのが本家佐伯氏14代当主惟定である。

(残念ながら私の直系の先祖ではないが。。。)

 

 天正6年(1578年)に父・惟真と祖父・惟教が耳川の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。天正14年(1586年)の豊薩合戦の際には、周辺の諸将が次々と島津方に降る中で、客将・山田匡徳を参謀に据えて徹底抗戦した。居城・栂牟礼城に攻め寄せた島津家久の軍を11月4日の堅田合戦で撃破した。12月4日には佐伯家臣・高畑新右衛門が星河城を攻め落とし、島津側に寝返っていた柴田紹安の妻子を捕らえた。このため、紹安は動揺して大友方に帰参しようとしたが、その動きを察知した島津軍に殺害された。さらに12月18日には戸高将監率いる島津軍の輜重隊を因尾谷で襲撃し全滅させている。翌天正15年(1587年)2月には土持親信が守る朝日嶽城を奪回した。大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉が九州平定戦を開始すると、3月17日に府内から撤退する島津義弘・家久兄弟の軍を日豊国境の梓峠で撃破した。日向路の大将・豊臣秀長が豊後に到着すると合流し、先導役を務めて日向に入り高城攻め等に参加した。九州平定後、秀吉は惟定の奮戦を激賞し感状を与えた。

出典:Wikipedia

 

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耳川の戦いで祖父・父が戦死し、惟定が家督を継いだのは若干9歳(1578年)。薩豊合戦の時ににようやく17歳(1586年)である。秀吉の九州平定で先陣を切ったのが、18歳(1587年)。此の戦ではあの鬼島津、義弘軍を撃破している。文禄の役参戦が24歳(1593年)、おそらく大友義統の失態を眼前にし、さぞ失望したことと思う。

 

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ちょっと話が逸れるが、大友義統はまさにダメな上司の見本。下記は義統の人物評であるが島津義弘と比較してしまうと、その余りの格の違いに涙が出そうになる。

(そもそも大友氏って有名な武家の割には全然名将が居ないような。。。)

  • 『九州諸家盛衰記』では「不明懦弱(ふめいだじゃく)」と書かれている。これは「識見状況判断に欠け弱々しく臆病」という意味である。
  • 天正遣欧少年使節が帰国した際、宣教師たちに棄教のことを謝罪したが、この中で「もとより自分は意志薄弱で優柔不断な性分なので」と言及している。(フロイス日本史)
  • 相当、酒癖の悪い人物であったらしく、多くの宣教師の資料に「過度の飲酒癖やそれによる乱行が多い」と記されている。自身も自覚していたのか前述の通り、子・義乗に残した家訓に「下戸である事」と戒めを記している。
  • 父・宗麟がキリスト教に傾倒し神社仏閣を破壊したという話が知られているが、大友氏の本拠である豊後国内や筑後国内での破壊は、当時次期当主であった義統が積極的に行っており、義統が主導した可能性もある。
  • 島津氏の一軍が豊後府内に侵攻してきたとき、義統は府内の大友館を捨てて逃亡している。さらにこのとき、寵愛する愛妾を置いていたことを思い出して、家臣の1人に救出を命じた。家臣の1人は命令に従って救出してきたが、それに対して義統が恩賞を与えようとすると、「私は女を1人助けたに過ぎません。このたびの戦いで多くの同朋が死んだにもかかわらず、それには報いず、私にだけ恩賞を与えるとは何事ですか。そのような性根を持つ主君は、我が主君にあらず」と述べて、逐電したという。この家臣の名は「臼杵刑部」といい、のちに毛利輝元に仕えたという。

ダメだ。。。 ダサい。。。あまりにもダサすぎる。。。

 

惟定に戻る。大友改易後、藤堂高虎配下で慶長の役に参戦したのが28歳(1597年)、かつての仇敵島津義弘が武功を挙げ、鬼島津と呼ばれるのをどんな気持ちで見ていたのか。。。

関ヶ原の戦い(1600年、31歳)は宇和島城留守役を勤め、出陣していない模様だが、その後の大坂冬の陣(1614年、45歳)、大阪夏の陣(1615年、46歳)にも寡兵を率いて出陣している。

享年50歳、戦に明け暮れた人生であったと思う。同じような人生を歩んだであろう島津義弘とは互いをどう感じていたのだろう。

 

歴史に”もしも”は無いとよく云うが、佐伯が大友ではなく島津に仕えていたらどうなっていただろうか。佐伯惟定の波乱に満ちた人生を辿るとそう思わずにはいられない。

惟廣と惟弘

 阿蘇の佐伯氏の初代と定められる佐伯惟輝、そしてその5代前の先祖とされる豊後佐伯氏の佐伯惟廣。この二人が佐伯本家の家系図に見当たらないことは前述のとおりである。

 

 佐伯家文書に曰く、

佐伯因幡守惟輝は、豊後国媼岳(祖母山)守護神之陰系大神姓佐伯二郎惟広五代之孫惟輝、大永之頃子細ありて居城豊後国佐伯荘栂牟礼城を落去りて肥後国阿蘇宮司を頼り来り、大宮司より客席として知行五百石を被宛行、其後東口請持砒を波野の内楢木野邑に構え於波野所領現地七十余町被宛行、楢木野苗字を賜り楢木野因幡守入道了法と号す、大永七年十月十二日逝去

と而(こう)して惟輝を阿蘇に於ける初代と定む。

出典: 阿蘇魂 (山本十郎)

 

 

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惟輝の没年大永7年といえば西暦1527年、奇しくも佐伯本家では佐伯惟治が臼杵長景の計略にかけられ尾高智山にて自刃したその年だ。

阿蘇佐伯氏初代を惟輝とすると、3代惟治が大永2年(1522年)に島津の侵入を防ぎ武功を挙げ、楢木野姓と槍一筋を大宮司から賜ったとあるから、少なくとも惟輝が阿蘇に移住したのは1522年以前のことと考えられる。惟治が大永年間に栂牟礼城を築いたとされているので、惟輝から5代先祖とされる惟廣が栂牟礼城主だったとは考えにくい。

 

さて、惟輝から5代前をさかのぼると、1世代25年~30年と考えて125年~150年前に生きていた人物と考えるのが自然。惟輝の没年1527年を起点とすると、1377年~1402年頃に亡くなった人物である可能性が高い。

 

この年代に近い佐伯本家の人物で言うと、7代佐伯惟仲(1373年没)とその弟佐伯惟弘(1367年戦死)がいる。

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上記資料は佐伯史談会から提供を受けた、伊予の佐伯氏に伝わる豊後佐伯氏家系図で、史談会が考える「もっとも正史に忠実な家系図」である。(下記記事参照)

 

佐伯史談会がこれまでにもっとも確からしいと考える家系図を四国で発見している。惟教の時代に伊予に落ちた一族の口伝と思われる。家系図自体は明治初期に作られたと考えられるもので、字体も読みやすく紙の保存状態も良い。
この家系図は神代(大国主命など)から書かれており、大和後期から大神惟基の間の系譜も記されている。この部分を記した資料は他に発見されておらず、貴重。惟基の蛇神伝説はこの空白を埋めるために後世が考えたものであろう。また、その他にも佐伯院が佐伯庄(=皇室領)になったタイミングなども記載がある。一部、鎌倉時代の裁判記録と整合が取れている内容もあり、かなり信憑性が高いと考えている。
作者は不明であるが、明治初期に政府主導の日本史編纂プロジェクトがあり、その招集を断り郷土史家として活躍を続けた西園寺源透という人物がおり、著者の可能性があると見る。

(佐伯史談会 佐藤巧会長聞き取り)

 

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2018年に佐藤会長にお会いしたときは資料としてまだまとまっていなかったようであるが、その後佐藤会長のご厚意により家系図の写しと、上記の通りデジタルファイルに書き起こした写しを提供頂いている。この場を借りて御礼を申し上げたい。

余談ではあるが、なんとこの家系図の最初に書かれている名前は素戔嗚尊スサノオノミコト)である。理一郎の家系図は神代まで続いていて、私の先祖はスサノオだったのか。。。!!(ほんまかいな)とはいえ豊後佐伯氏の祖である大神惟基の先祖、大神良臣や三輪子首らが大和大神(おおみわ)氏であり、奈良の大神神社が所蔵する「三輪高宮家系」という資料に名が残っていると聞く。(なので、あまり信じていないが、完全なデタラメでもないだろうと思う。)

 

話がそれたが、私が云いたいのは阿蘇佐伯氏に伝わる佐伯惟廣とは、本家佐伯氏家系図に名前が見える佐伯惟弘と同一人物としか考えられないという事である。佐伯惟弘の没年1367年(正平22年)はターゲットとする1377年~1402年から若干(1377年まであと10年)ズレてはいるものの、惟弘が戦死せずに寿命を全うしていれば十分に年代が合致していると考えることができる。

 

また、惟仲は南朝側に付いて阿蘇惟村に代わり功を挙げたとあるし、惟廣が討死したとされる益城郡矢部というのは当時武家大名として勢力を誇っていた阿蘇家の本拠地、浜の館が在していた場所だ。二人とも阿蘇家に縁があった人物であることは疑いない。

佐藤会長からも「阿蘇佐伯氏の祖、佐伯惟廣とは7代佐伯惟仲の弟、惟弘のことではないか?」と示唆を受けていたが、自分の頭で考えなおしてもそうとしか考えられない。寿安堂が考える阿蘇佐伯氏の祖もやはり、7代惟仲の弟惟弘である。

 

気になるのは、正平22年2月にあったとされる矢部の合戦である。そのような記録はどこを調べても見つけることができない。情報をお持ちの方がいれば何卒ご教示頂きたい。

資料入手

前回の更新からまた1年くらい間が空くかと思っていたら、奇跡的に2日後に時間が取れたのであれこれ記しておく。

 

入手したかった資料が3点ネットで入手できた。(佐伯志以外の2冊は注文し、到着待ち。)

 

・ 訓読 豊後国誌 (太田由香、松田清

www.kinokuniya.co.jp

 

・ 大友興廃記の翻訳と検証 (九州歴史研究会)

ooitaootomo.thebase.in

 

・ 佐伯志 (豊国史談会)

books.google.co.jp

 

国史談会なんてあるのか、と思って調べたらなんのことはない佐伯史談会の前身であった。佐伯志はGoogle Booksから無料ダウンロード可能。だが、いかんせん1914年発行だけあって日本語がめちゃくちゃ読みづらい。そういう意味で、今回購入した豊後国志も大友興廃記も現代語訳されているものなのでとっても助かるのである。。。

 

大友興廃記は理一郎蔵書の写本が手元にあるが、下図の通り漢文でかかれているので、無教養な私にはほとんど読めない。この程度であればスラスラ読めるようになっておかないと今後の研究に支障をきたすのだが。

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大友興廃記には著者の杉谷宗重が「佐伯惟定に鱗が3枚生えているのを見た」と書いている部分があると聞くので、楽しみに到着を待っている。

 

宮地佐伯家の墓地

理一郎が残した資料の中に、「現在宮地墓」と書かれた落書き(?)が残されている。

 

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以下の記事に書いたように、墓地の場所に目星はついている。

juandou.hatenablog.com

 

 

 

航空写真で見るとこんな感じ。

 

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ピンクで囲った場所が墓地全景。青丸で囲った部分に阿蘇宮司家の墓が集中している。青丸の北側を散策したことがあるが、ほとんど坂梨家の墓。佐伯と書かれた墓は1基しか発見できず、その時は時間が無くてギブアップした。良く考えたら阿蘇家家臣の中で当家の順位(?)は8位くらいのはず。阿蘇宮司家のすぐそばに筆頭家臣坂梨家の墓があるのは当たり前で、三下家臣の当家の墓なんてそもそもこのピンク枠の中に存在するのだろうか。

 

 

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もう少し広角で見てみる。ピンク円が上記阿蘇宮司家の墓地周辺だが、オレンジで囲った場所にも墓地があることが分かる。やってみると分かるが、墓地は航空写真でかなり簡単に見つかることを学んだ。ということで、宮地佐伯家の墓はこのオレンジのどこかではないかと考えている。暇さえ出来ればフィールドワークに行くのだが、なかなか叶わない。(そもそもブログ更新する暇もないし。)

 

それにしても理一郎の落書きは字が汚すぎて救いようが無いが、それでも中央に千地子と書いてある墓が確認できる。千地子は筆頭家臣坂梨家から婿養子にやってきた衛門太の妻で、、、、おそらく衛門太も同じ墓に眠っているはずだが、ひょっとして墓石には千地子の名前しか書いていないのか?生前の衛門多の苦労、推して知るべしである。

 

さて、今日はここまで。

また次回の更新は一年後くらいになるかもしれないが、私が生きている間は寿安堂も続く。

佐伯氏と怪異伝説

 

佐伯に纏わる伝説は、豊後大神氏の祖、大神惟基が蛇神の子という言い伝えから始まり、そのほかにも様々な怪異が幾たびも佐伯の歴史に登場する。

以下は平家物語、繯巻記より。(”おだまき”記、「緒環」とも)

 抑(そもそも)緒方三郎惟栄と云うは大蛇の末なり。その由来を尋るに昔豊後国宇田という所に大太夫という徳人ありたるが、花ノ本という姫あり。容顔美目尋常ならず。国中に聟(むこ)になりたい者多かれども徳微(わずか)にて用ひず園に家を造りこの姫を住まわせたり。あるとき、立烏帽子(たちえぼし)に水色の狩衣を着たる男の、年は二十四~五ならんと思う人が、彼の花ノ本が側に差し寄りて、様々と物語して慰めども靡(なび)くことなし。夜な夜な通ふて細々に恨(うらみ)くどきたれば、花ノ本 は遉(さす)がの人にて岩木ならねば終に靡(なび)きたり。その後は夜な夜な通ひたり。父母に深く隠したけれども、後に知りて姫を呼び委(くわ)しく問はれども、恥かしき道なれば顔を打ち赤めて兎角を紛らわしたる。母は様々にさとしはなして問いたれば、親の命も背き難くして、ありのままにぞ語りたる。母をこのことを聞く。「水色の狩衣に立烏帽子の者、田舎人とも覚えず。定めて只人にてはあらじ、今は聟(むこ)に用うべし。如何に彼人(かのひと)の行末を知るべし…。」

 様々計らひけるに母は云いたり、「曙(あけぼの)帰る中に印をなして、その行末を尋ねるべし。」と、繯巻(おだまき)に針を与へて念頃(ねんごろ)に姫に教へて、その園の家に帰す。その末、彼の男きたり曙方(あけがた)帰りけるに教(おしえ)のごとく姫は繯巻(おだまき)に針を貫きて男の狩衣の首かみに刺したり。

 夜明る程に斯(か)くと告げたれば、親の大太夫・子供・下人四~五十人引具して糸の印を尋ね行き、誠に実る苧(からむし)百色千邑(せんゆう)に引はへ、尾を越え谷を越え行くほどに、日向と豊後と境なる祖母嶽と云ふに大きなる穴の内にぞ引き入れたり。

 彼の穴の口にて立てるをば、大きに病(やまい)吟ずる声あり。これを聞く人身の毛も余立つ恐ろしさ、父の教(おしえ)に任せて姫は穴の口にて糸を引き、「抑(そもそも)この穴の内には如何なる者の存すぞ。また何事にて病(やまい)て吟ずぞ…。」と問へば、穴の内に答へたるは「我は汝花ノ本に夜な夜な通ひたる者なり。縁も契(ちぎり)も尽き、曙に頤(あご)の下に立てられたれば、大事の疸(きず)にて病(やまい)吟ず。我が本身は大蛇なり。有りし形なれば出て見(みまえ)もしけれども、日頃の情(なさけ)既に尽き本(もと)の形は恐れたまふべしなれば、這い出ては人怖じ、世に名残も惜しく恋しくも思ふゆれ、これまで尋ね来たりたまへること忘れ難し…」と云ひたれば、女の曰く「たとひ如何なる形にてまじくとも、日頃の情け如何でか忘るべきなれば唯出たまへ。最後の有様をも見奉り、露怖(つゆこわ)しと思わず。」と云ひたれば、

 大蛇穴の内より這出たれば、長さは知らず臥丈(ふしだけ)は五尺ばかりあり。眼は銅の錫(すず)を張るがごとく、口は紅を含めるに似たり。頭に角を頂き頭髪を生すなどして獅子頭に異ならず。去れども形に似ず、ががとして泪(なみだ)を浮かべ頭ばかりを差し出したりが、着たる衣を大蛇の頭に内掛け、頭の下の針を抜く。

 大蛇は大喜悦にて申したるは、「汝が腹の内に一人の男子やどれり、すでに五つ月になり。又八か月にして顕(あらわ)れたらば日本国の大名ともなるべし。五つ月にして顕(あらわ)れなば九州には勝者あるまじく、弓矢を取って人に勝れ、計(はかる)の事賢くして心剛なるべし。先非(さきあらざ)る恐ろしき胤(たね)ならば、迚(とて)も穴かしこ捨て玉ふな、我子孫の必ず繁昌すべし。」これを最後の言葉にて大蛇は穴の内に引き入りて死にたり。彼の大蛇と云うは則ち祖母嶽明神の水じゃく(垂迹)なり。

 大太夫の眷属立ち帰り日数積もりて月満ち、また花ノ本産して成長盛なるに随(したが)って容顔もゆゆしく心根も猛かりたり。母方の祖父の名を取って大太童子と呼べり。常に野山を走りたれば足にあかがり常に割れたれば、苗字あかがり太夫と云いたる。その子大弥太、その子大次、その子大六、その子大七、五代目の孫に佐伯次郎惟廣、緒方三郎惟義(惟栄)は竹田岡城主なり。

出典:平家物語「繯巻記」

 

 もちろんこの伝説は後の子孫が出自を誇張したものであると考えられる。

しかも大蛇と云いつつ5尺(1.5m)って。。。ちょっと短かくないでしょうか。

現代の常識から考えるとあかがり(あかぎれ)大太って、アトピーだっただけじゃないの?という気もする。(もしくは魚鱗癬?)

 

それはともかく、この大蛇が住んでいた穴というのは現存(?)しており、普通に観光で訪れることができる。

 

おそらく子孫代々この伝説を有効利用(?)したと考えられ、豊後佐伯氏の家紋は「三つ鱗」、代々当主には体に鱗が現れるとの伝説まである。

 

祖母岳大神宮の末の家は、代々鱗あり。前の佐伯惟定の嫡男惟重のとき、元和五年己未十一月二十日に脇の下より一つ出る。予(大友興廃記の著者杉谷宗重)年号日付し是を認む。前の惟定には三つ出たる由聞ゆ。

出典:大友興廃記「剣の巻」

 

他にも。。。

 

10代佐伯惟治:

大友に謀反の嫌疑をかけられ、臼杵長景に騙されて栂牟礼城から退去の道中待ち伏せされて自刃。その後各地で異変・怪異が相次ぎ、惟治の呪いとして恐れられた。臼杵長景も病死。惟治を祀る神社が20あまり建てられたとも。存命中からトビノオ様、 夜刀神として領民から恐れられていたそうな。栂牟礼記にも「妖術を用いて民を惑わす」とあり。

 

11代佐伯惟定:

秀吉の九州平定の際に先陣を切った猛者。その後大友改易とともに藤堂高虎の家臣となったが、その後津藩にも色々と言い伝えを残したようである。

 

 佐伯氏は九州に多い大神姓の国人ですが、この一族は皆その家に祖母嶽大明神(蛇神)の末裔という伝説を伝えており、佐伯権之助家も怪異の逸話が残る、藩内でも異色の家臣でした。

一例として「津市史」に以下のように書かれています。
「伊勢津の岩田字西裏に祖母嶽明神を祭った俗にいう佐伯の宮と称した神社があった。境内は八十六坪程で老樹が生い茂り、みだりに樹木を折り取ると神罰があると言い伝えられて恐れられた。佐伯権佐がここに来住して来た時に、豊後直入郡の祖母嶽大明神を移し祭ったので、佐伯の祖先は蛇であるという怪異を伝えた。
ある時藩主が丸ノ内の佐伯の宅に臨んで、祖先代々の秘箱を開こうとしたら、にわかに一天がかき曇り恐ろしい空模様となってきたので、さすがの藩主も驚いて中止したということである。佐伯家は桑名藩にもあるが、同じようにその祖神である姥嶽明神の神霊について、これと良く似た伝説がある。」

 また1941年発行の「安濃津郷土史会々誌」には
「毎年十一月二十四日が佐伯祖神の例祭日で、佐伯主人は其の前一週間厳重に齋戒して、穢れを除き、深夜丑時(午前二時)に寳庫を開いて尊拝し、それが終わると直ちに佐伯町なる御宮に参拝する。これには定まった式禮があって、形の如く執行せられ、それが済んで主人が帰館すると共に門を開くのが、定例となっていた。この七日の潔齋は餘程嚴に行うたもので、その間は御殿への出仕もせず、又、物頭の勤役も免除せられたと、洞津遺聞にも記してあるが、佐伯の神寳となると、それ程も藩の公認する神秘的な存在だったのである」

出典:藤堂高虎とその家臣

 惟定の刀と云えば巴作の太刀が有名であるが、他にも何本か「佐伯家の刀」というものがあるようだ。ネット情報でソースが確認できないので、ここでは紹介しない。とはいえ、その中の一振り、「神息の太刀」は同じ刀工の作が島原家に伝来したものが現存している。

www.city.shimabara.lg.jp

 

最後に断っておくが、私の体にはどこにも鱗は無いし、妖術も使えない。というか、阿蘇の佐伯氏にほとんど怪異伝説が残っていないので、妖力は本家に置いてきてしまったのであろう。。。

ただ、以前ニシキヘビ(ボールパイソン)を飼育していたことがあるので、不思議な縁を感じなくもない。

 

 

2018年2月18日議事録: 佐伯史談会 佐藤巧会長

2018年2月18日に大分県佐伯市を訪問し、大分の郷土史研究会である佐伯史談会、佐藤巧会長と面談をさせて頂く機会を得た。

 

以下、議事録。

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20180218 佐伯史談会 会長 佐藤巧氏

豊後佐伯氏の菩提寺が長らく不明であったが、佐伯史談会が番匠川の向かいの集落(上岡)にそれらしい寺と墓を見つけた。番匠川を三途の川に見立てたのでは。名を永福山慈済院という。墓も近くにある。鎌倉時代の五輪の塔様式のもの。銘が刻まれていないため、推測であるが、その大きさから有力者の墓と思われる。

永福山慈済院

豊後佐伯氏 墓地と思われる場所

延岡に佐伯惟治の霊を呼ぶ巫女がいる。80過ぎの老婆。郷土史の市民講座などをやると、その巫女はこう言ってたから、ここを調べてみろなどという話を始める輩がおり、話も長くて対応に困る。ただ、その巫女はかなり勉強しており、史談会が聞いてももっともらしく聞こえる事を言う。そもそも佐伯惟治の怨霊を祀る神社がこの地域に数多くあり、いまだに夜刀神の祟りは地域に広く信じられている。

豊後佐伯氏の経済基盤は鉱山事業が担っていたのではないか、と考えている。このあたりの山はスズや銅が取れる。色んな山に穴があいている。蛇神伝説もこの穴が遠因ではないか。また、佐伯惟治が妖術に傾倒していたという伝説も、製鉄技術を国家機密として秘匿したのが妖術として語り継がれたのではないか。また、犬神憑きの言い伝えも鉱山開発からの水質汚染が関係しているのかもしれない。

阿蘇の佐伯氏がいつ頃阿蘇に落ちたのかは定かではないが、7代惟仲が阿蘇宮司家の代理で南朝側で戦ったとする家系図もあり、南北朝時代から阿蘇との関係はあった模様。その頃から阿蘇、坂梨市原家との婚姻関係あり。佐伯市にも市原という苗字がいるが、本来豊後土着の名前ではなく、阿蘇から来たものと思われる。

佐伯史談会がこれまでにもっとも確からしいと考える家系図を四国で発見している。惟教の時代に伊予に落ちた一族の口伝と思われる。家系図自体は明治初期に作られたと考えられるもので、字体も読みやすく紙の保存状態も良い。
この家系図は神代(大国主命など)から書かれており、大和後期から大神惟基の間の系譜も記されている。この部分を記した資料は他に発見されておらず、貴重。惟基の蛇神伝説はこの空白を埋めるために後世が考えたものであろう。また、その他にも佐伯院が佐伯庄(=皇室領)になったタイミングなども記載がある。一部、鎌倉時代の裁判記録と整合が取れている内容もあり、かなり信憑性が高いと考えている。
作者は不明であるが、明治初期に政府主導の日本史編纂プロジェクトがあり、その招集を断り郷土史家として活躍を続けた西園寺源透という人物がおり、著者の可能性があると見る。

大神を”おおみわ”というのは大和の国。何故か豊後では”おおが”、と読む。前述の通り、大神惟基も大和の出自であろう。

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参考:

ja.wikipedia.org

 

2018年2月17日議事録:阿蘇神社権禰宜 池浦秀隆氏

2018年2月17日に阿蘇神社を訪問し、権禰宜であり、同社の学芸員でもおられる池浦秀隆氏と面談をさせて頂く機会を得た。

 

以下、議事録。

 

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20180217 阿蘇神社 権禰宜 池浦秀隆氏

(冒頭に阿蘇神社宮司阿蘇治隆氏が挨拶に見えて、名刺交換をさせて頂いた。)

江戸時代の阿蘇家に伝わる古文書(阿蘇家文書)を全て熊本大学に預けており、初めて目録を作る作業をしているところ。その中に、熊本藩に家臣の雇用(主従関係の締結)を報告する文書もあり、宝暦3年(1753)年に佐伯新次兵衛*1阿蘇家家臣として取り立てると申告している。その文書にも、佐伯新次兵衛は豊後大神氏の出自で、大友に追われ楢木野に居住していた一族であるとある。主従関係を結んだタイミングで楢木野から佐伯に復姓している。

この阿蘇家文書を辿ると、佐伯家に関する情報がまだ出てくるはず。少なくとも家臣の代替わりは全て記録されているはずである。ただし、鎌倉時代の記録はほとんど現存しない。一般公開されていないので、熊本大学に開示請求をかける必要あり。

江戸時代の阿蘇宮司家は大まかに家事組織と神社組織に分かれており、それぞれ"お屋敷"、"お宮"と呼称している。またその他にも阿蘇宮司家が所有する仏教組織もあり、いずれも阿蘇山の火口が御神体神道か、仏道かというのはあくまでツールの違いとして捉えており、大切なのは地域の信仰を支えること。

宮地の佐伯家(理一郎家)が代々職務についていた大宮司近習というのはお屋敷の仕事であるので、神職ではない。神社ではなく、文字通り屋敷で勤務していたと思われる。家臣にもランクがあり、佐伯家は上から2番目の小姓頭格*2という中間管理職的なポジション。坂梨は1番目の触頭。家臣と言っても、身分が低ければ名目だけの武士で、普段は百姓をやっていたと考えられるが、小姓頭格であればやっていないであろう。具体的な職務内容は徴税、会計、記録、文書作成、阿蘇家当主の公務補佐などではないか。阿蘇家当主は熊本藩に赴く用事も多く、同行していたと考えられる。理一郎所有の〇〇道中記の中にも熊本藩への道中記がある。清次郎が記したもの。

現在でも元阿蘇家家臣の末裔で作る、旧臣会という集まりがある。ここ20年くらいは目立った活動をしていないが、、、 

理一郎氏は寿安という号を名乗っていたが、寿安の印が押された資料が一部阿蘇神社に残っている。祭りの行列を描いた絵巻物。元々は神社のものであると考えられるが、一時期理一郎氏が保有し、その後返却されたのではないか。

佐伯家に代々ついている惟の字がつく諱は、いわゆる(呪いなどに使われる)忌み名ではなく、正式な名前。清次郎とか衛門太というのは日常に使う俗称。阿蘇家も当主は惟の字がつく。佐伯氏と阿蘇氏のどちらにあやかって惟の字を付けていたのだろうか。

 

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神社裏手にある、理一郎生誕碑に歩いて案内してもらった。現在は山部商店というお店の一角にあり、この山部商店は昔の信用金庫の建物を居抜きで使っているために奥に金庫が見える。ここのオーナー家族が碑の手入れをしてくれている。碑の裏には義男の名前があり、理一郎の長男である佐伯義男が碑を建てたということであろう。

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阿蘇宮司家の墓がある墓地を教えてもらい、1人で行ってみた。有力家臣の墓もあると聞いたが、墓地が広すぎて理一郎家に関係しそうなものは見つけられず。佐伯家の墓、と書かれた墓石がひとつあったが、ぱっと見で昭和に入ってからと思われるデザイン。坂梨家の墓多し。場所は阿蘇神社の前の道を南下し、豊肥本線の踏切を渡ってすぐ左手(東側)グーグルマップにはただ古神社と記載ある。(2019/8/25追記:Googleがゼンリンと破局した影響で現在は”古神社”との記載は見られなくなっている。)

 

 

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*1:阿蘇家の記録では進士兵衛ではなく新次兵衛

*2:池浦氏にもらった資料には佐伯新次兵衛は上から三番目の”知行取格”と記載あり、詳細不明。