寿安堂

佐伯理一郎の系譜

山本十郎『阿蘇魂』

寿安堂でもたまに引用しているが、熊本県郷土史家、山本十郎が晩年に記した『阿蘇魂』という本がある。佐伯史談会会長、佐藤巧氏より阿蘇佐伯氏にまつわる部分の写しを提供いただいたので、下記にその一部を書き起こしたい。

 

尚、この本を入手したいと思ってあちこち探し歩いているが、未だ叶わない。売ってやっても良いという方がもしいたら是非連絡を欲しい。

 

 佐伯家文書に曰く、

佐伯因幡守惟輝は、豊後国媼岳(祖母山)守護神之陰系大神姓佐伯二郎惟広五代之孫惟輝、大永之頃子細ありて居城豊後国佐伯荘栂牟礼城を落去りて肥後国阿蘇宮司を頼り来り、大宮司より客席として知行五百石を被宛行、其後東口請持砒を波野の内楢木野邑に構え於波野所領現地七十余町被宛行、楢木野苗字を賜り楢木野因幡守入道了法と号す、大永七年十月十二日逝去

と而(こう)して惟輝を阿蘇に於ける初代と定む。大永年代は大宮司是惟豊時代で、その頃惟豊は同族惟長惟前父子と相争い戦利あらず矢部の本城岩尾を後にして日向の鞍岡在に難を避けて居る時で、阿蘇は二辺塚の本城には重臣蔵原志摩守ありて余勢を保ち、坂梨には北坂梨の一党高城を守り内牧には辺治丹後守ありて内牧城に拠り阿蘇谷を固め、北部小国には北里、室原、下城等ありて大友竜造寺立花等に備え、南部南郷には高森、長野、村山、布田等ありてそれぞれ居城に拠り矢部の本宗と連絡を保ち東北大友、南方島津を警戒したるも、広漠たる波野の広野は一時大友の後援はあったが、大友は宗教上の関係よりして阿蘇山西巌殿寺を焼討して僧伽を四散せしめた。先是惟家大宮司時代阿蘇神社は天災のため全部消失し爾来(じらい)戦乱相次ぎ造営成らず、ために神職亦(ま)た居る所を失いて所在明かならず、宗家は一時南郷に避けたるも此の地亦(ま)た不安にして矢部の奥地に逃避し、属城は各地にあるも何れも力乏しく僅に大友の後盾はあるも是れとて島津の来襲に阿蘇を中間接衝地とするための自己防衛策に過ぎないので頼むに足らず、広き阿蘇東辺の大広野産由波野色見方面には阿蘇の防衛設備全く欠乏せる折とて、佐伯の来投は阿蘇家にとりては天恵ともいうべく、是に於て佐伯は東口を受持ち大友牽制の重任を負うこととなった。

 惟豊公矢部にあり人吉相良家と結び甲斐宗運を始め幾多の謀将雄卒を率い肥後の南半を略して一時三十五万石の所領を得られたるは外には相良家ありて島津の進出を抑え、内には知将宗運あり隈本以南益城宇土等の豪雄相並びて南方を警め本拠阿蘇には前記の如く南中北の三部は氏族臣下之を固めていたので、佐伯の東口防衛はその方面防備の欠陥を補うもので、即ち第三代惟治波野領守時代薩摩勢乱入の時惟治の勇戦奮闘の功顕われ阿蘇家より賞され、又た第四代惟成は高地屋向山の勢大宮司に敵対したので之を法度せんとしたところ、敵此の戦闘を聞き蜜に彼地を忍び出で豊後国津江由指して落行くところを阿蘇郡の内姫明神嶽の麓多津山に馳向い家伝長光の太刀を打振り打ち振り敵兵多数を殺傷し敗走せしめて大宮司の感悦斜ならず、その賞として鑓壱筋を賜い波野一円代々所領の恩賞があった。

 

 然るに惟豊大宮司甲斐宗運病死し且つ南方の楯であった相良約を破り島津と相結びその大群を率いて北進しければ南方の鎮たる阿蘇の砦は次々に島津の屠る所となり、遂には阿蘇、南郷、小国に於ける居城も皆陥落し、本宗阿蘇家も惟将、惟種相次いで逝去し二幼児を残せる而己(のみ)にて前記の如く殆ど滅亡の状態であった。為めに波野楢木野第八世惟知は奉仕する所を失い浪人生活をなすに至る。

 時に豊臣秀吉島津を討伐して九州を平らげ、肥後は南半を小西行長に北半を加藤清正に支配せしむるに至り、楢木野第九世惟実は清正より波野の総庄屋を命ぜられ知行五拾石を交附せらる。次で細川忠利の入国となり楢木野は第十代惟勝に至り本家御取立仰付らる。同第十三代才右衛門次男信七は産由志賀満右衛門の養子となり滝水に入り滝水楢木野を擁立す即ち滝水の第一世である。此の時一円十二家皆郷土を以て一両一疋の格式を与えられた。第十五世惟定は本家と共に本姓佐伯に復し久住手永横目相勤め御中小姓となる、第十六世惟真父の役職並に家格を継ぐ、時に藩庁にては八代新地築堤の工事あり、惟真を蒙(こうむ)り白浜に出張して工事の監督をなし功により賞せらる。明治五年二月晦病死す四十八歳。

 第十七世惟英通称伊三郎幼より文武両道に励み、星野、中村、水足等の諸師より剣術、居合、鑓術其他薙刀馬術等多くの目録段に進み波野郷武芸役を勤め、明治七年竹田土民一揆の節郷士を引連れ鎮撫につとめ久住由法華院保護の任を完了し官より賞せられる。又た明治十四年西南役には官軍に従い功あり賞金を下賜(かし)せらる。爾来(じらい)諸役相勤め明治二十三年波野村初代助役に同二十八年波野村町となり同三十六年郡会議員同四十年郡会議長に挙げらるる等数々の名誉職を重ね地方公共の業務に尽して功績少なからず、弟信四朗また兄につぎ波野村助役となり村長となり私財を擲(なげう)って村治の改善向上につとめたが、彼は地方に稀なる読書人にして殊(こと)に民間教育家として郡教育会県教育界等の委員にあげられ地方開発に尽す諸兄弟相並んで稀に見る徳操高き人であった。同家教訓書の中に左の一条がある。

楢木野家数代威権を振い大宮司殿依頼加藤公細川様より追々御恩沢を蒙り罷在候故、小前(こまえ)共よりはお屋敷と尊称し波野殿様と由来程の事なれば子孫たるもの能々(よくよく)勘考致云々

と、自ら戒めて敢て倨傲(きょごう)の振舞なき謹直さは流石に名門の後裔というべしだ。明治二十一年二月二十八九両日伊三郎施主にて自宅に於いて佐伯因幡守惟輝三百五十年大施餓鬼(せがき)を営む、集る親族現存するもの

   楢木野(宗家)   佐伯次馬太惟久

   同         城井格太郎

   滝水        佐伯伊三郎惟英

   同         佐伯信四朗惟智

   産由        志賀徳太

   上ノ原       楢木野文八

   中江        飯田冠(冠妹ツル赤仁田楢木野又寿妻となる、故を以て来会)

   宮地        佐伯操(其他宮地分家のもの使者を立つ)

   色見        佐伯惟朗(其他色見分家の者)

又た明治三十四年五月十二日は惟英惟智相謀り大神惟基公八百七十五年、家祖因幡守三百七十五年の祭りをなし宮地其他一門残らず来会し来賓として男爵阿蘇惟考及び惟考大叔惟興両公を始め知名の郷紳数十名席に列れりという。

<中略>

(附言)

宮地に分家あり高瀬屋という、我国医界に看護婦養成学校を創設せる博士佐伯理一郎や幕末勤王家として阿蘇惟治卿と共に京摂(きょうと)の間に天下の同志と共に明治維新の基礎を形成せる佐伯関之助は共に宮地分家の出身である。(本書第五章阿蘇出身人物の項参照)

 

 明治二十一年(1888年)に行われたという大施餓鬼に宮地からは佐伯操が出席したことになっているが、当家の記録によると操は文化十四年(1817年)に没すとあり、何かの間違いではないかと思う。理一郎の父、清次郎の没年は明治二十二年(1889年)であるので、清次郎が出席した可能性は無きにしも非ずだが。。。1888年というと理一郎26歳の時である。

 

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また、当家系図によると惟輝の没年は大永七年(1527年)で、350年を足すと明治十年(1877年)で、これも一致しない。

 

さて、最後の最後で理一郎の名前が出てきたわけだが残念ながらこの続きを手元に持ち合わせていないので「第五章 阿蘇出身人物」の項が確認できない。

とはいえ、楢木野第七代惟知が浪人になった理由もここで確認できるし、理一郎の文通(?)相手であった佐伯伊三郎は大した人物であったことが知れる。西南戦争にも参加していたとは知らなかった。しかし佐伯伊三郎氏はあまりネット上に情報も存在しておらず、寂しい限りである。これだけの名士であるのだから、その子孫もたくさんおられるのではないかと思う。もし子孫の方がこのブログを見かけたら、コメントでも残して頂けると大変うれしい。

ところで、”宮地に分家あり高瀬屋という”とあるが、高瀬屋という号は聞いた事が無い。

 

阿蘇魂に綴られる阿蘇の佐伯氏の物語と、当家に伝わる家系図の比較はまた次の機会としたい。