山本十郎『阿蘇魂』
寿安堂でもたまに引用しているが、熊本県の郷土史家、山本十郎が晩年に記した『阿蘇魂』という本がある。佐伯史談会会長、佐藤巧氏より阿蘇佐伯氏にまつわる部分の写しを提供いただいたので、下記にその一部を書き起こしたい。
尚、この本を入手したいと思ってあちこち探し歩いているが、未だ叶わない。売ってやっても良いという方がもしいたら是非連絡を欲しい。
佐伯家文書に曰く、
佐伯因幡守惟輝は、豊後国媼岳(祖母山)守護神之陰系大神姓佐伯二郎惟広五代之孫惟輝、大永之頃子細ありて居城豊後国佐伯荘栂牟礼城を落去りて肥後国阿蘇大宮司を頼り来り、大宮司より客席として知行五百石を被宛行、其後東口請持砒を波野の内楢木野邑に構え於波野所領現地七十余町被宛行、楢木野苗字を賜り楢木野因幡守入道了法と号す、大永七年十月十二日逝去
と而(こう)して惟輝を阿蘇に於ける初代と定む。大永年代は大宮司是惟豊時代で、その頃惟豊は同族惟長惟前父子と相争い戦利あらず矢部の本城岩尾を後にして日向の鞍岡在に難を避けて居る時で、阿蘇は二辺塚の本城には重臣蔵原志摩守ありて余勢を保ち、坂梨には北坂梨の一党高城を守り内牧には辺治丹後守ありて内牧城に拠り阿蘇谷を固め、北部小国には北里、室原、下城等ありて大友竜造寺立花等に備え、南部南郷には高森、長野、村山、布田等ありてそれぞれ居城に拠り矢部の本宗と連絡を保ち東北大友、南方島津を警戒したるも、広漠たる波野の広野は一時大友の後援はあったが、大友は宗教上の関係よりして阿蘇山西巌殿寺を焼討して僧伽を四散せしめた。先是惟家大宮司時代阿蘇神社は天災のため全部消失し爾来(じらい)戦乱相次ぎ造営成らず、ために神職亦(ま)た居る所を失いて所在明かならず、宗家は一時南郷に避けたるも此の地亦(ま)た不安にして矢部の奥地に逃避し、属城は各地にあるも何れも力乏しく僅に大友の後盾はあるも是れとて島津の来襲に阿蘇を中間接衝地とするための自己防衛策に過ぎないので頼むに足らず、広き阿蘇東辺の大広野産由波野色見方面には阿蘇の防衛設備全く欠乏せる折とて、佐伯の来投は阿蘇家にとりては天恵ともいうべく、是に於て佐伯は東口を受持ち大友牽制の重任を負うこととなった。
惟豊公矢部にあり人吉相良家と結び甲斐宗運を始め幾多の謀将雄卒を率い肥後の南半を略して一時三十五万石の所領を得られたるは外には相良家ありて島津の進出を抑え、内には知将宗運あり隈本以南益城宇土等の豪雄相並びて南方を警め本拠阿蘇には前記の如く南中北の三部は氏族臣下之を固めていたので、佐伯の東口防衛はその方面防備の欠陥を補うもので、即ち第三代惟治波野領守時代薩摩勢乱入の時惟治の勇戦奮闘の功顕われ阿蘇家より賞され、又た第四代惟成は高地屋向山の勢大宮司に敵対したので之を法度せんとしたところ、敵此の戦闘を聞き蜜に彼地を忍び出で豊後国津江由指して落行くところを阿蘇郡の内姫明神嶽の麓多津山に馳向い家伝長光の太刀を打振り打ち振り敵兵多数を殺傷し敗走せしめて大宮司の感悦斜ならず、その賞として鑓壱筋を賜い波野一円代々所領の恩賞があった。
然るに惟豊大宮司は甲斐宗運病死し且つ南方の楯であった相良約を破り島津と相結びその大群を率いて北進しければ南方の鎮たる阿蘇の砦は次々に島津の屠る所となり、遂には阿蘇、南郷、小国に於ける居城も皆陥落し、本宗阿蘇家も惟将、惟種相次いで逝去し二幼児を残せる而己(のみ)にて前記の如く殆ど滅亡の状態であった。為めに波野楢木野第八世惟知は奉仕する所を失い浪人生活をなすに至る。
時に豊臣秀吉島津を討伐して九州を平らげ、肥後は南半を小西行長に北半を加藤清正に支配せしむるに至り、楢木野第九世惟実は清正より波野の総庄屋を命ぜられ知行五拾石を交附せらる。次で細川忠利の入国となり楢木野は第十代惟勝に至り本家御取立仰付らる。同第十三代才右衛門次男信七は産由志賀満右衛門の養子となり滝水に入り滝水楢木野を擁立す即ち滝水の第一世である。此の時一円十二家皆郷土を以て一両一疋の格式を与えられた。第十五世惟定は本家と共に本姓佐伯に復し久住手永横目相勤め御中小姓となる、第十六世惟真父の役職並に家格を継ぐ、時に藩庁にては八代新地築堤の工事あり、惟真を蒙(こうむ)り白浜に出張して工事の監督をなし功により賞せらる。明治五年二月晦病死す四十八歳。
第十七世惟英通称伊三郎幼より文武両道に励み、星野、中村、水足等の諸師より剣術、居合、鑓術其他薙刀、馬術等多くの目録段に進み波野郷武芸役を勤め、明治七年竹田土民一揆の節郷士を引連れ鎮撫につとめ久住由法華院保護の任を完了し官より賞せられる。又た明治十四年西南役には官軍に従い功あり賞金を下賜(かし)せらる。爾来(じらい)諸役相勤め明治二十三年波野村初代助役に同二十八年波野村町となり同三十六年郡会議員同四十年郡会議長に挙げらるる等数々の名誉職を重ね地方公共の業務に尽して功績少なからず、弟信四朗また兄につぎ波野村助役となり村長となり私財を擲(なげう)って村治の改善向上につとめたが、彼は地方に稀なる読書人にして殊(こと)に民間教育家として郡教育会県教育界等の委員にあげられ地方開発に尽す諸兄弟相並んで稀に見る徳操高き人であった。同家教訓書の中に左の一条がある。
楢木野家数代威権を振い大宮司殿依頼加藤公細川様より追々御恩沢を蒙り罷在候故、小前(こまえ)共よりはお屋敷と尊称し波野殿様と由来程の事なれば子孫たるもの能々(よくよく)勘考致云々
と、自ら戒めて敢て倨傲(きょごう)の振舞なき謹直さは流石に名門の後裔というべしだ。明治二十一年二月二十八九両日伊三郎施主にて自宅に於いて佐伯因幡守惟輝三百五十年大施餓鬼(せがき)を営む、集る親族現存するもの
楢木野(宗家) 佐伯次馬太惟久
同 城井格太郎
滝水 佐伯伊三郎惟英
同 佐伯信四朗惟智
産由 志賀徳太
上ノ原 楢木野文八
中江 飯田冠(冠妹ツル赤仁田楢木野又寿妻となる、故を以て来会)
宮地 佐伯操(其他宮地分家のもの使者を立つ)
色見 佐伯惟朗(其他色見分家の者)
又た明治三十四年五月十二日は惟英惟智相謀り大神惟基公八百七十五年、家祖因幡守三百七十五年の祭りをなし宮地其他一門残らず来会し来賓として男爵阿蘇惟考及び惟考大叔惟興両公を始め知名の郷紳数十名席に列れりという。
<中略>
(附言)
宮地に分家あり高瀬屋という、我国医界に看護婦養成学校を創設せる博士佐伯理一郎や幕末勤王家として阿蘇惟治卿と共に京摂(きょうと)の間に天下の同志と共に明治維新の基礎を形成せる佐伯関之助は共に宮地分家の出身である。(本書第五章阿蘇出身人物の項参照)
明治二十一年(1888年)に行われたという大施餓鬼に宮地からは佐伯操が出席したことになっているが、当家の記録によると操は文化十四年(1817年)に没すとあり、何かの間違いではないかと思う。理一郎の父、清次郎の没年は明治二十二年(1889年)であるので、清次郎が出席した可能性は無きにしも非ずだが。。。1888年というと理一郎26歳の時である。
また、当家系図によると惟輝の没年は大永七年(1527年)で、350年を足すと明治十年(1877年)で、これも一致しない。
さて、最後の最後で理一郎の名前が出てきたわけだが残念ながらこの続きを手元に持ち合わせていないので「第五章 阿蘇出身人物」の項が確認できない。
とはいえ、楢木野第七代惟知が浪人になった理由もここで確認できるし、理一郎の文通(?)相手であった佐伯伊三郎は大した人物であったことが知れる。西南戦争にも参加していたとは知らなかった。しかし佐伯伊三郎氏はあまりネット上に情報も存在しておらず、寂しい限りである。これだけの名士であるのだから、その子孫もたくさんおられるのではないかと思う。もし子孫の方がこのブログを見かけたら、コメントでも残して頂けると大変うれしい。
ところで、”宮地に分家あり高瀬屋という”とあるが、高瀬屋という号は聞いた事が無い。
阿蘇魂に綴られる阿蘇の佐伯氏の物語と、当家に伝わる家系図の比較はまた次の機会としたい。
さえきとさいき
佐伯理一郎に関する研究は同志社大学やクリスチャン界隈においてそれなりに進められているようであり、ネット上にも多く情報が出回っている。
しかし、そのほとんどにおいて佐伯理一郎は「さえき りいちろう」と表記されているが、彼は、少なくとも晩年においては自ら「さいき りいちろう」を名乗っていたようだ。
これは理一郎蔵書の大友興廃記の表紙。
Dr Saiki’s libraryの文字が確認できる。”門外不出”の字は理一郎の直筆であろうか?字が汚い上に”出”だけ収まらなかった感じに親近感が湧く。
理一郎の子供たちも好き勝手に「さいき」と名乗ったり「さえき」と名乗ったりしていたようで、当家は「さいき」だが、親戚に「さえき」もたくさんいる。
個人的な感覚だが、全国の佐伯さんのなかで「さいき」読みをする家は10%程度だろうか?まだまだ知名度が低く、ローマ字表記で誤記が発生する割に口頭ではほとんど違いが聞き取れないのでそれなりに苦労する。(特に航空券を間違えて発行されるとパスポートと一致せずに飛行機に乗れない。)
佐伯はもともとは「さへき」であったようで、「さえき」が訛って「さいき」になったと考えられているようである。
佐伯家系図写(理一郎著)その弐
さて、佐伯家家系図写はまだ続く。
ただし、ここからは宮地佐伯家初代を楢木野孫兵衛惟秀と定め、新しい体裁で記録が続く。
家督を継いだ長子だけではなく、妻や兄弟の名前が登場するようになり、情報量が格段に増える。おそらく理一郎本人の記録や、阿蘇に残る佐伯諸族から直接聴取した内容が織り込まれていると考えられる。
操、唱と続いていたジェンダーレス男子が突然衛門太によって現実に引き戻される。
但し、衛門太に記される注記は当時の時代背景を理解するのに非常に役立つ。
衛門太
諱惟寛、市原盛快三男。初め、内牧寺西新助養子となり一女を奉て後、離縁し佐伯家の養子となる(文政九年十一月十七日)嘉永元年二月**変死、*五十才
衛門太は阿蘇家の筆頭家臣である坂梨市原家の出身である。それが三男というだけでより下位(と思われる)内牧の寺西家の養子となり、女子しか産まれなかったために離縁されている。その後、佐伯家に再度養子に出されるわけだが、当時の佐伯家は阿蘇家の家臣団では8番目くらいの順位であり、筆頭家臣であった市原家と比較すると家の格は相当に低かったと考えらえる。いかに長子以外の男子及び女子の扱いが悪かったかを如実に語るエピソードである。
さらに衛門太は「変死」とあるが、狩猟中の事故で亡くなったと聞く。
さて、ここでようやく理一郎の名前が登場した。
清次郎が残した手記もいくつか理一郎の箱の中に保管されており、阿蘇家当主が熊本藩へ登庁(?)した際の道中記なども存在する。あまりにもアヴァンギャルドなくずし字で記されているために解読は容易ではないが、熊本へ出る際にどこの飯屋に寄っていくら払ったとか何時から何処どこで芝居を見学するとか書いてあるようである。まるで本社から役員が来た時の営業担当サラリーマンのような仕事である。家督制度や婚姻の風習が思い起こさせる前時代感と、清次郎のサラリーマン然とした勤務実態のギャップが私の興味を惹く。
話がそれるが、理一郎は坂梨家の家系も調べており、誰かが簡単に記した家系図が残っているのでいずれそちらの話もしたい。(但し、字が汚すぎて読めない。)
〇印がついているところが衛門太。辛うじて寺西新助の字が判別できる。
実はこの次に理一郎が自分の子や孫の名前まで記し、自ら諱を付けているページがあるのだが、ここまで来ると現在も存命の方の名前が登場する。私の父も好き勝手に自分の家族を書き加えているので、私の名前、諱すらも登場する。色々と差支えがあるので全体公開するのはここまでとさせて頂く。
理一郎の子孫に関しては、閨閥学というホームページが詳しい。完全ではないが、大体合っている。そして、多少間違いがあった方が当家のプライバシーを守るに都合が良いのでそのままにしておく。
佐伯家系図写(理一郎著)その壱
以下は理一郎の残した家系図資料の中で最もよくまとまっていると思うものである。
ここで「系図写」とはじまるまでの前段は、字が汚すぎて真面目に読んでいない。(というか読めない)
「佐伯家祖先の故跡」と読める部分は大神惟基の大蛇伝説、緒環(おだまき)記*1であろうと思う。
さて、ここからが本題で、佐伯次郎惟廣(これひろ)がいかなる人物であったのか。
阿蘇の佐伯氏に広く伝わる家系図のほぼ全てが、この佐伯惟廣なる人物に阿蘇の佐伯氏の系譜を帰結させている。
佐伯次郎惟廣
豊後国祖母嶽守護繯巻の*系姓大神兄弟三人あり、別府太郎、緒方三郎、佐伯次郎是也(豊後誌武家評林に概略を載す)時代*ならずと**戦国足利時代と。
佐伯伊三郎曰く、太祖は大神惟基公にして明治三十四年を*るは八百七十五年なりと。
要は、緒方三郎の兄だったとする説である。
余談であるが、佐伯伊三郎とは理一郎と同じ時代を生きた阿蘇の佐伯氏の一人で、文武両道で名が知れた名士だったようである。*2 理一郎と伊三郎の往復書簡は数多く残っており、伊三郎は理一郎が阿蘇の佐伯家系譜を調べるにあたり主な情報提供者であったようだ。
惟輝
因幡守と称す。惟廣五世の孫、父祖の業を継ぎ豊後国佐伯栂牟礼城主たり大友と戦を交え一敗、地を棄て肥後国に去り阿蘇大宮司に依り家臣となる。(以下略)
先に紹介した「家系図 略」では大友のもとで島津との戦いに敗れ、阿蘇に落ちたと書いてあるのにこちらでは大友と戦を交えたことになっている。(理一郎はおおざっぱな性格だったようだ。)また、惟輝は大永7年(1527年)12月12日に卒す、とある。
本家、豊後佐伯氏で1527年というと、佐伯惟治が大友に敗れて尾高智山で自害したと伝えられる年でる。であるから、当然その時の栂牟礼城城主は惟治である。大友と一戦を交えたという時代は符号するが、城主の名前が一致しない。
阿蘇佐伯氏に伝わる多くの家系図や、「阿蘇魂」でも阿蘇佐伯氏の初代は惟輝であると定めている。但し、本家の豊後佐伯氏の家系図には栂牟礼城主惟輝なる人物は登場せず、まさしくこの惟輝こそが阿蘇佐伯氏と豊後佐伯氏をつなぐミッシングリンクと言える。
惟光の子、惟治。(惟輝から数えて3代目)
上述した本家佐伯氏の10代当主、佐伯惟治とは別人である。
島津が阿蘇に攻めて来た際に武功を立てた、とある。この武功により阿蘇大宮司家より褒美として阿蘇郡波野郷一帯の土地を与えられ、楢木野の姓と槍一振りを与えられたようである。
ここで分かることは阿蘇の佐伯氏というのはほぼ全ての氏族が一度は楢木野姓になっているということ。当家も後に佐伯姓に復姓するまでは楢木野という苗字だったのだ。
さて、しばらく読み飛ばしていこう。
惟知
いきなり入道し、阿蘇を去り、浪人になっている。時は秀吉の九州平定の直前、島津の侵攻に対し阿蘇家は絶滅寸前の様相であり、惟知は奉仕するところを失い、その子孫はその後庄屋になったとある。*3
楢木野孫兵衛大神惟秀
源内左衛門の子、始めて宮地に移る。
寛延二年(1749年)巳己九月六日没す。
ここで初めて宮地の地名が出てきた。
楢木野を宗家とする阿蘇佐伯氏は、その後阿蘇に散らばり、以下の分家となる。
- 楢木野(宗家)
- 滝水(佐伯伊三郎の系統)
- 産由
- 上ノ原
- 中江
- 宮地
- 色見
佐伯理一郎は宮地の佐伯家で、生家は阿蘇神社の裏手にあった。
現在その場所には山部商店という名前の小さな商店があり、店の前には小さな石碑が立っている。
阿蘇佐伯氏の初代、惟治から孫兵衛まで11代。
孫兵衛を宮地の初代と数えると理一郎は8代目である。
さて、その次である。
佐伯進士兵衛大神惟頼
惟秀の二子、寛保二年*月(1742年)佐伯の旧姓に復す。
*三宅平太郎の配下より再び阿蘇家に*りたるの時なり。
この進士兵衛の代で再び阿蘇家に召し抱えられ、そのタイミングで姓を佐伯に戻したようだ。身分は百姓(庄屋)から武士に戻ったはずである。
また、進士兵衛を召し抱えることにした阿蘇家にも記録(阿蘇家文書)が残っており、初めて確証を以て実在が確認できる人物と言える。阿蘇家文書にはその祖父楢木野源内の名前まで記されており、少なくとも楢木野源内から理一郎までの系譜は正しいと私は考えている。
以下は、阿蘇神社権禰宜 池浦秀隆氏から提供を受けた阿蘇文書の該当部分写しである。
可能な限り書き起こしてみる。
** 迫助五郎
宮地町 佐伯新次兵衛
右の者、先祖は大友家の侍にて有の候処、佐伯因幡守と申す者の代属当家数十代楢木野へ治領す知居候処、当家落去以後浪人にて罷り在り。
其の後、郡方役入杯に相成り居候処、右新次兵衛祖父楢木野源内と申す者三宅藤兵衛家来罷り成り申し候。
右の通り譜代相い伝えの者に付き、先大宮司代寛保二年三宅平太郎へ及び取り遣い、右源内孫此の方家来召し抱え、先祖の名字に相改め申し候。
同 市原五郎**
右の者、先祖は当家譜代家来坂梨之
当家に伝わる家系図では進士兵衛とあるが、阿蘇家文書には新次兵衛とされている。正直言ってこの時代にはよくある間違いで、取るに足らないことであろう。
さて、続き。
この記録はここで一旦区切りとなっており、次からは孫兵衛を宮地佐伯家の初代として再度家系図が続く。
恐らくここまでが”写し”、この先は理一郎本人の自著であろうと思う。
すごくどうでも良いことだが、これまで源内左衛門とか進士兵衛といったTHE江戸な名前からいきなり操とか唱といったちょっとジェンダーレスっぽい名前になったことに凄く興味を惹かれる。1740~1750年頃というと時はあの暴れん坊将軍徳川吉宗の時代である。その時代に何か文化風習が大きく変わる出来事があったのだろうか。。。
はじめに
今より遡ること25年前の1993年頃、私の父が今はなき京都産院で古ぼけた一つの箱を見つけたことからこの物語は始まる。
京都産院とは、明治時代の海軍医・産科医であった佐伯理一郎(さいき りいちろう)が設立した病院で、佐伯理一郎とは私の曾祖父にあたる。そしてその箱の中身とは、理一郎が生前に蒐集した佐伯家の系譜にまつわる資料であった。これらの資料は理一郎の手記、理一郎以前の先祖が残した手記、古書、手紙など約50点から構成され、現在その全てが私の手元に存在する。
この箱が私の生家に存在することは以前より父から聞き及んでいたが、長らくその箱は忘れられ、私の父もこれらの資料を真剣に解読しようとはしなかった。しかし、数年ほど前から、理由はよく分からないが私がその箱に惹かれはじめ、理一郎が書き記した物語を紐解くようになる。
子供の頃より父から聞かされていた佐伯家の系譜に纏わる物語。
曰く、理一郎の生家は阿蘇にあり、代々阿蘇神社に仕えた宮侍である
曰く、佐伯家は熊本藩細川家の家臣であった
曰く、細川家に縁を感じた理一郎は京都大徳寺、細川ガラシャの隣に墓を建てた
曰く、元をたどれば佐伯家は豊後大友の家臣であり、島津に敗れて阿蘇に落去した
曰く、当家の男子には代々、惟の字を冠した諱がつけられており、お前にも諱がある
本当だろうか?
宮侍とは一体どんな仕事なのだろう?警護?それとも神職だったのだろうか?理一郎は熊本バンドに入り西洋にかぶれ、キリスト教に改宗した上に海外留学までしている。神社に仕える家からそのような者が出て問題にならなかったのだろうか?諱?忌み名?これはいったい何なのか?なぜ私にも諱が付けられているのだろうか?
手始めに私はこれらの資料を全てスキャンし、電子データ化を完了した。
すでにいくつかの郷土史研究会や資料館などにも研究目的でデータを寄贈している。
佐伯家系図 略
直祖豊後守佐伯惟基より出つ
惟基は豊後国佐伯に生し五十一才の時豊後の守護に任せられ元永元年戊辰十一日没す
年九十三才、姓は大神(オオミワ)と称す
其後子孫代々と殖へ、源平時代に至り兄弟三人あり長を佐伯太郎、次を臼杵次郎、三を緒方三郎と唱う
三郎最も秀で、源義経の**竹田城を築き且つ軍艘として各百艘***参百艘を壇ノ浦に**供す
之からこそ源氏は大勝して**平家を亡し得たりと言伝う
天正十三年三月豊臣秀吉が備中国冠山の城を**に当たり佐伯惟宣(太郎と称す)先陣*功あり依って感状を与えられる(其の感状今も家蔵す)
其後、大友宗麟の客分となり島津との戦に尽力せしも、大友家亡ふるに*****肥後の阿蘇に**阿蘇大宮司の客分となり明治維新に逢し遂に京都に移住す(明治三十四年)
(*は解読不能字)
※ここで言う竹田城とは雲海で有名な兵庫の竹田城ではなく、大分県竹田市にあった岡城のこと
上記は理一郎が私の父に宛てた手簡である。何故理一郎が数多い子孫の中から私の父を選んでこのような手記を残したのかは不明ではあるが、理一郎は豊後佐伯氏の始祖、大神惟基に自身のルーツを見出していたようだ。但し、上記手記には多分に誤謬が含まれている。緒方三郎の部分まではおおまかに史実と整合しているが、豊臣秀吉の九州平定で先陣を切ったのは佐伯惟宣(惟教)ではなく惟定である。また、家蔵すると書かれている秀吉からの感状は原本ではなくただの写しにすぎない。更に、我が一族は大友宗麟の客分になり島津との戦に敗れて阿蘇に落去したのではない。私が考えるに、阿蘇の佐伯氏はおそらく南北朝時代から戦国初期にかけて徐々に阿蘇に移住している。決定的であったのは10代惟治の時代に大友より謀反の嫌疑をかけられ、家を滅ぼされそうになった事であろう。その後阿蘇に落ちた佐伯氏は当時はまだ武家大名であった阿蘇家に庇護を求め、代々阿蘇家に仕えるようになる。であるから、秀吉の九州平定の時代には我が一族はとっくの昔に阿蘇にいたはずで、それどころか阿蘇の佐伯氏はそれ以前の阿蘇合戦において阿蘇家とともに島津に滅ぼされているのだ。このような島津の台頭を恐れて大友宗麟が秀吉に助けを求め、秀吉が九州侵攻を開始するのはその後である。尚、当家が直接細川家に仕えた記録はない。
理一郎が大神惟基の子孫であるということはほぼ間違いないと思う。但し、阿蘇の佐伯氏がいつごろ豊後を立ち、阿蘇に移住したのかは分からず、理一郎の系譜を辿る上で最大の謎である。
また、寿安堂という名前にも少し触れておく。理一郎は京都の自宅に茶室を作り、寿安堂と名付け、自らを寿安の主人と号していたようである。「寿安」の印も作っていたようで、阿蘇神社に所蔵される巻物にも寿安の印が残っているものがあると聞く。
寿安の名の由来について、千利休がつくった茶室、待庵をもじったとも、細川ガラシャの次男、細川興秋の洗礼名ジョアンにあやかったとも言われているようだが、真相は分からない。
私はこのブログを寿安堂と号し、理一郎の遺志を胤ぎ、胤斉を名乗る。
更新はひどく不定期になると思うし、理一郎の系譜を大神惟基まで辿るには私の一生だけでは足りないかもしれない。ただ、あの箱が、理一郎の遺志が、謎を解き明かせと私に語りかけるのだ。
私は父に言った事がある。「よくもあんな古ぼけた箱を取り壊し寸前の廃院から見つけたな」と。
父は真顔で、「そうじゃない、俺があの箱に呼ばれたんだよ」と答えた。